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無知/非知を作動させ、「関係」の実在性を解体する - 神村恵カンパニー「腹悶」レビュー

沢山遼

私たちは歩くことができる、あるいは、私たちは踊ることができる。そのような確信は、おそらく次のように言い換えることができる。すなわち、主体とは自らの身体を統御し制御する、自らの動作の主人、すなわちエージェント(agent)である、と。しかし、ジル・ドゥルーズは彼のスピノザ論のなかで、端的にそのような確信は誤謬であると指摘する[註1]。たとえば歩くという動作があり、私たちは事実歩くことができる。私たちは歩行能力をひとつの技能として特殊化・習慣化することによって、自身の身体を司る主人であるかのようにふるまい始める。しかし、ドゥルーズによれば、私たちは、身体の上に引き起こされた結果を目的であったと錯覚し、身体に対するおのれの支配力にその根拠を求めようとしているに過ぎない。私たちはものごとの秩序を取り違え、結果と原因を錯覚し、意識は、身体こそがその動作のために働いた目的因だったとしようとするのである。しかし、私たちは自らの身体の主人ではない。
ドゥルーズが示す身体の謬見に関する認識は、認知科学の領域でも主張されている。近年の認知科学は、意識が神経系を経由し身体に運動の指令を送る直前に、身体がすでに作動し始めていることを報告しているからだ。すなわち、身体は主体に先立ち、その行動を開始している。私たちの知らない場所で、すでに、そしてつねに、身体は身体を駆動させている。よって、このような身体と主体との位相においては、身体は、主体にとって「無知」あるいは「非知」の属性を帯びている。身体が動き始める瞬間、主体はそのことについて知らない。言い換えれば、身体とは自ら、自らを作動させる、一個のオートマトン(自動機械)である。
しかし、現代のダンスは、このような身体の無知性、あるいは自動機械としての身体という問題とどれほど直接的に関わることができただろうか。たとえばダンスには「振付」という要因が存在し、計画から実演に至る一連のプロセスにおいて、そこに明確な時間的序列・区分を与える。振付けられた動作を実演する行為において、身体は時間的な因果系列の内部に構造化される。もちろん、ドゥルーズが指摘する身体の誤謬に従えば、即興すなわちインプロヴィゼーションにおいても同様の構造化は避けられないと言うべきだ。即興には、振付という要因が存在しないのではない。即興/振付の差異に関わらず、主体が身体を駆動させる権利と能力を保持するという、いわゆる「センス・オブ・オーナーシップ」と「センス・オブ・エージェンシー」、すなわち身体に対する意識の権力の行使が解体されないかぎり、あるオーダーに従って身体が駆動するという序列が本質的に解消されるとは言えないからである。

神村恵の新作『腹悶』は、認知症や介護の問題に接近したダンス作品である。その意味で、それはエージェントの全権性と全能性が失調した身体の状態をダンスそれ自体のフレームとして扱う。そして、そこで扱われる身体は、身体の知的・意識的統制とは無関係のようにふるまう、一種の自動機械へと後退していくだろう。ここから観者は、神村が、認知症や介護問題、あるいは「老い」という、「現実的」かつ「社会的」主題へと接近したのだという理解を進めるかもしれない。もちろんそのような理解の蓋然性は否定されるべきではない。しかしそれがより興味深いのは、その主題が振付という行為の不可能性に触れるようなものであるという点においてではないだろうか。つまり、振付けられる身体からその動作を司る知的主体の全権性と全能性が喪失されたとき、そのような主体をいかに振付けるべきなのか――このダンスにおいて神村が向かおうとするのは、身体の統制的・意識的統御から解除された(と設定された)身体を振付けるという、それ自体倒錯したふるまいであり、もちろんその問題は同時に自らの知的・意識的想像力の外部にある人間といかにコミュニケーションし、意思の疎通を測るのかという(認知)問題と併行している。たとえばこの公演では、明らかに認知症の人物を示唆するような、主体の統御を外れた自動機械的な動作が頻出する。観者は、無造作に寝転んだり椅子に座ったりする行為を繰り返す身体、手で顔をごしごしと擦る身体、足をばたつかせるダンサーに他のダンサーが靴下を履かせようとするシークエンスなどを目撃する。

筆者が実見した2014年4月3日の公演では、壁面にところどころ「虫喰い」のような空白がある設問やテキストが投影されていた。公演の中でも、二人のダンサーのあいだで〈問い―応答〉の応酬が展開される。たとえばそこで展開されるのは次のような「問い」だ。「私がこれからいう数字を逆からいって下さい」「これから5つの品物を見せます。それを隠しますので何があったかいって下さい」「知っている野菜をできるだけ多くいって下さい」――。神村によれば、これらの問いは認知症の疑いのある被験者に対して行なわれるテストであるという。
壁面に投影されたテキスト、そして「長谷川式」と呼ばれるこれらの認知症テストは、問いかけられる主体と問いかける主体とのあいだにひとつの関係性をもたらす。「問い」とは問いかけられた一方の者を受苦的な状況へと追いやるものであり、それらの操作によって明らかになるのは、ある者のある者に対する関係の非対称性である。ダンスのなかで執拗に展開されるコンタクト・インプロヴィゼーションを思わせる身体の接触や、二人のダンサーのあいだで交わされる暴力的な接触や行為もまた、このような問い―応答の身体的かつ暴力的な発露であるに違いないだろう。ダンサーから他のダンサーに投げつけられる小道具、暴力的な身体の介入、執拗に繰り返されるいくつもの設問=問いといったすべての道具立ては、複数のエージェント間の身体的のみならず精神的な衝突と接触を前景化するものである。一見して、神村が本作で展開しているものは、そのような二者間の関係の受苦と応答の主題系であるようにみえる。
しかし、壁面に投影されたテキストが虫喰いによって判読不可能であるために、その問いが問いの体をなしていない、つまり問いに対する応答が不可能であったのと同様に、認知症の患者の返答から、そうした問いに対する確実な応答がなされたのかを判断することは困難である。設問者がいくつもの問いを被験者に投げかける「長谷川式」のテストは、意思の疎通を成立/不成立、成功/不成功の二つのレベルから、濃度の問題へと移行させるからである。翻れば、そもそも私たちのあいだで交わされる問い―応答の関係においては、問いに対する応答の確実性を「確証」することはできない。すべてのコミュニケーションは、そのような応答の不可能性のなかに位置づけられている。認知テストは、コミュニケーションのもつそのような不透明性、不可能性をいっそう際立たせる。

ダンスのなかで展開される自動機械的な動作もまた、このようなコミュニケーションの不透明性と関係しているように思われる。たとえば公演の終盤のシークエンスで、クッションを女性に執拗に投げつける自動機械的な動作を繰り返していた男性ダンサーが、次に女性ダンサーをクッションのように持ち上げ床に何度も叩き付ける衝撃的なシークエンスがある[註2]。このとき女性の置かれた身体的位相は、クッションのような事物的存在へと下降している。このような局面において、本作の暴力的な印象はよりいっそう強められるものとなる。しかし、そのような暴力的な身体の接触は、次のシークエンスにおいて唐突に裏切られる。女性は、オートマトンのように、床に横たわったまま、これまでの男性の行為が一切関係なかったかのように、自分の身体を自ら放り投げるようにドスン、ドスンと床の上をバウンドする。それは、私たちの目撃していた暴力の非対称性の印象が裏切られる瞬間だ。つまり、そこで示唆されているのは、男性ダンサーの女性ダンサーに対する身体的介入とは無関係に、女性が「はじめから」投げられ続けていた可能性である。ダンスのなかで執拗に展開される、言語を用いた「問い」に対する「応答」の不透明性・不確実性と同じく、私たちは身体的接触による応答関係が果たして成立していたのかどうかを定位することができない。言い換えれば、本公演において、私たちは言葉によるコミュニケーションと同じく、身体によるコミュニケーションが成立していたのかどうかを確信する、いかなる手だても与えられてはいない。
その意味で、ダンス中に展開される問い―応答の関係性や暴力の非対称性は、外部の関係に先立って、ダンサーの内部に複数の作動要因が実装されていると想定されたときに瓦解する。自動機械とは、言い換えればある主体の内部で複数のエージェントが反映・反省的に作動するような状況を指し示すからである。たとえば、自ら自分の身体をクッションのようにバウンドさせ続けるダンサーが示すのは、自らが自らの主体であると同時に、投げつけられるクッションのような事物すなわち客体であるという、輻輳的な身体行使の図式である。すなわち自動機械的な運動においては、身体の内側で、すでに男女間の関係が先取りされていたのだ。

たとえば私の問いに対する他者の応答が、彼の「独り言」ではない、という確信を私たちはどのようにして持てばよいのか。あるいは誰かが相手を押したとき、相手が倒れたのはその誰かの動作のせいであり、彼が自ら倒れたのではないということを、第三者はどのように証明すればよいのだろうか。ある発話が認知症患者の独り言ではなく、あるいはある動作が、身体が統御を失い自動機械化した動作ではないと、観者はいかにして証明することができるのか。
その意味で、神村の野心は、私たちにはすでにおなじみの一連のコンテンポラリー・ダンス、とくに実在する他者としての男女間の情動的な「問い―応答」の受苦的主題系をひたすら強調するピナ・バウシュや、コンタクト・インプロヴィゼーションを含むポスト・モダン・ダンスの系譜を技術的に先鋭化し「コミュニカティヴ」なダンス・フォーマットの創出を企図するウィリアム・フォーサイスらのダンスと比較するときいっそう異質である。神村のダンスが強調するのはむしろ、複数の「無知」「非知」がすれ違い交差する場なのだ。そこには、複数の身体的・言語的接触を媒介としたコミュニケーションの透明性を保証する、いかなる超越的な観点も与えられていない。つまり、暴力や他者との非対称性を強調し、あるいは他者とのより直接的かつ暴力的なコミュニケーションを想定しているようにみえる神村のダンスは、実はその逆に言語的伝達や身体的接触の不可能性にこそ触れているのである。そこで示唆されているのは、すべての身体が非接触的に「閉じられている」可能性である。
たとえば神村のダンスはこれまでも、ダンサーがある言葉を発話し、その言葉に従ってそのダンサーの身体が反応・応答するというような、主体の閉じられた内部での反省や内省という契機を重視してきた。神村の振付家としての洞察は、外在的な他者との非対称性のみならず、自らの内側にそのような「問い―応答」の関係、あるいは諸状況や諸力の緊張や亀裂がすでに身体の内側に書き込まれているという点に向けられてきたのである。それは、私の持ち物である「私の」言語や身体こそ、抗争と拮抗の場であり、諸力がせめぎあう結節点にほかならないという認識だ。そのような反省、内省こそ、具体的、実在的な他者(それを社会や現実と言い換えてもよい)との非対称性のリアリズムを批判し、それを自らの身体の内側において切り開く契機となる。
そのような意味において、神村のダンスは、既存のダンス・フォーマットが前提としてきた視認性を時として前提としない。すなわち、その「振付」は、身体運動による視認性を超えた場所で内在的に記述しうる身体の可能性を先取りすることで、実在する他者との関係に規定された「社会」や「現実」というイデオロギー、あるいは実在的な他者と絶えず同期=関係することを強いられた現実空間を内在的に批判することを目指しているのである。「老いた」人間、あるいは自らの制御を失った「自動機械」としての人間がダンスするのは、そのような「関係」の実在性を組み替え解体する、新たな主体の位相である 。

[註1] ジル・ドゥルーズ『スピノザ 実践性の哲学』鈴木雅大訳、平凡社、2002年、38頁参照。
[註2] ただし、別の日の公演では、男女の役割は入れ替わっている。