リビングルームの幽霊たち
プロジェクト・ユングラ《Living Room / Living Sound》@水性2024年4月20日14:00の記録
針貝真理子
昭和の街並みが残る中野の商店街を歩いた先に、「水性」というスペースがあるという。散歩日和の春の午後、次々と目の前にあらわれる古い路地へと寄り道したくなる気持ちを抑えながら、私は足早に目的地へ急いだ。
いや、目的地を目指して急いだつもりが、いつの間にか通り過ぎてしまっていたようだ。それほどまでに、そのスペースは商店街に溶け込んでいて、その入口は秘密めいていた。というのも、「水性」は廃業したクリーニング店の建物をそのまま使ったスペースだったのだ。入口は、クリーニング店時代の広い客用ドアではなく、脇にひっそりと設えられた、勝手口のような狭いドアである。日陰になった室内の暗がりに受付の人が座っているのがさっきも見えたが、占い屋か何か、そうでなければ家の内側で涼んでいる人だと思って通り過ぎてしまったのだった。勝手口らしきドアは不便なつくりで、10センチはあろうかという敷居に足を引っ掛けて転びそうになったのは単にこちらの運動神経の問題であろうが、体をぶつけないようにそうっと入らねばならない小さな入口は、ちょっと茶室の「にじり口」のようでもあった。誰かのプライベートな空間に、おそるおそるお邪魔するような感覚。
中は思ったよりも明るい。電気がついているのもあるが、通りに面した壁はいちめんガラス張りで、外の光が入り込んでくるのだ。ガラス越しに、向かいの建物も、通りを行き交う人々も見える。その明るく透き通った壁づたいに、クリーニング店の名残と思われるモノたちが、とりあえず、といった風情で片付けられている。舞台と客席のために空けられた黄土色のリノリウムの床には、ありし日に重い道具が鎮座し、働く人が立ち歩いた年月が、黒ずみや剥がれとなって刻み込まれていた。いっぽう、壁は真っ白だ。塗り替えたのだろう。奥側の壁に並ぶのは、黒いケーブルで互いに絡み合っている上演用機材と、白いカウンターで下半分が隠れたキッチンだ。カウンター奥の壁はいちめん清潔な白いタイルで覆われ、赤いケトルや干された布巾が、今の「住人」の生活のにおいを漂わせている。——ここは、過去と現在が交差する空間なのだ。公演タイトルは、この空間に呼び名を与える。Living Room。たしかに、居間というのは、そこに住む人の「いま」が堆積して過去を持つようになる空間だ。しかし、この空間に堆積している過去は、個人のプライベートな過去ではない。廃業したクリーニング店の過去なのだ。つまり、かろうじてその痕跡だけから偲ばれる、無数の見知らぬ誰かの時間なのだ。過去と現在だけでなく、私的空間と公的空間のイメージがここで交差する。
さて、「ダンス」だ。すぐれた「ダンサー」として知られたふたり——神村恵と木村玲奈——の「ダンス」を、何かしらの特異な体の動きを期待する。観客は、リビングルームに招かれた客のような距離感で、パイプ椅子に座ってぐるりと空間を囲み、向かい合ってお互いの顔を眺めながら、「ダンス」が始まるのを待つ。だが、このふたりのダンサーは、踊りが踊りとして認識されるギリギリの線を攻めてくる、一筋縄では行かない踊り手でもある。しかも、パイプ椅子に大部分を占領されたリノリウムの床は、大きく体を動かすには狭すぎる。ふたりがぶつからずにラジオ体操をするくらいのスペースはあるがしかし……。
入口すぐの壁沿いには、床に音響機材とギターが並べられている。ここに「サウンド」をつかさどるもうひとりの主役——土屋光——がやってくるのは想像がつくが、タイトルのLiving Soundというのは一体何だろうか? もはや日本語化した「リビング」とは、ふつう居間のことを言う。考えてみたらおかしなことだが、日本語では、いちいち「リビングルーム」と言わなくても、「リビング」だけで居間なのだ。でも英語なら、「生活の」、「生きている」、「現存する」、「生き生きした」……音。ちなみに、Soundという英語もなかなかに厄介な、いやむしろ便利な言葉である。楽音から雑音、騒音、自然音から電子音まで、音波で人の耳に伝わるものなら何でも含み込んでいる。そこに、音楽と雑音の境目はない。
三人の出演者は、楽屋からスポットライトをまとって厳かに——ではなく、「お待たせしました」という挨拶とともに「登場」した。観客と同じ平面に、シャツにジーンズという日常的な出で立ちで。「水性」には楽屋も照明機材も、段差のついた「舞台」もないのだ。暗幕もない。そういう意味ではブラックボックスの劇場よりもホワイトキューブの展示空間に近いかもしれないが、ここには生活感というノイズが満ち溢れている。さらにマチネの空間は、自然光と電気からなる日常的な光に照らされ続ける。居間のように。あるいはクリーニング屋のように。出演者たちは、マイクを手にするでもなく、俳優的な発声技術を用いるでもなく、ほとんど普通の会話の音量でアナウンスを続けていた。説明によると、観客は、彼らの手から簡易なFMラジオを受け取り、出演者含め全員がイヤホンでラジオの音を聴きながら上演に立ち会うのだそうだ。チャンネルは変えてはいけないが、音量や座る場所は好きに変えていいし、なんならイヤホンをつけ外ししてもいいらしい。私は心の中でひとりほくそ笑んだ。こういうときには、遠慮なく自由を謳歌するほうが楽しいのだ。
ブラックボックスでの上演と比べるとはるかになだらかに、それでもたしかに上演のスイッチが入ったのは、ふたりのダンサーが床にあぐらをかいて座り、目線を落としたときだった。そこに、ラジオからギターが一音トーンと鳴り、空間が変質する。歪みのない、温かみのある音。エフェクターで引き伸ばされているのだろうか。それは長い長い残響が終わるまで、単音で鳴り響いた。一音一音の立ち上がりと消え去りを味わうかのような残響のリズムにあわせて、ゆっくりと音が連ねられていく。
そのリズムを空間に保ったまま、さりげなく、木村玲奈が背後から一冊の本を取り出す。床の上に立て、手を離す。支えをなくした本は、重力にしたがってパタリと倒れる。本のタイトルは見えないが、ハードカバーの本だ。その本を神村恵が手に取り、同じように立て、本が倒れる。ふたりのダンサーはこうして代わる代わる本を立てる動きを繰り返す。立て方を変えると、倒れやすさが物理的に変わってくる。いつしか本は、読む対象ではなくなり、音を立てる物体に変わっていた。本が倒れる「パタリ」を楽しむ遊びをしているようにも見えてくる。別の本が、グラスが、巻き尺が加わる。文庫本がハードカバーに挟み込まれるパサリ、グラスが転がる澄んだカラララ、巻き尺を伸ばすキリキリキリキリ……。それぞれの物体に加えられる——人の手と地球の引力の——力にしたがって音が生まれ、ギターがゆるやかに紡ぐ音楽へと組み込まれていく。
この「遊び」によって変質するのは物体だけではない。それを動かす身体もまた、いつもの位置付けをずらされて、ごろりとそこにある物質と等価に存在しているのが見え、聞こえるようになってくる。身体もまた、本を読む、グラスから飲む、巻き尺で測るという機能から解き放たれ、力を加える物体としての側面を際立たせる。個人の感情表現ではなく、客体的な身体を前景化する、配置の芸としてのダンス。ポストモダンダンスの系譜だ。それは、身体やモノを一義的に商品化するわたしたちの時代の眼差しを解体するとともに、人間中心主義に対する批判としても機能する。
音楽と遊びがいったん止むと、足が歩くための足になり、本が読むための本になり、声が言葉を語るための声になる時間がふたたび戻ってきた。そのなかで、空間の中央まで歩いた神村は、台に登り、長い棒の先につるしたS字フックを天井のレールにかけようとする。……が、失敗。また失敗。さらにまた失敗。そのたびに、チャリンチャリン、と金属質の派手な音を立てながら、ステンレスのS字フックが観客の頭上に落ちてくる。ちょっと痛そうだ。しかしフックはなかなかかからない。身体をいっぱいに伸ばしてほとんど爪先立ちになりながら長い棒を操る不安定な動作を、わたしははらはらしながら見守り、——真下の観客のためにも——成功を祈った。そのとき成功を祈る観客の目に映るのは、登るための台、S字フックをかけるための棒、棒を操るための手だ。ここでは、モノと身体の、道具としての用途がふたたび前景化している。そして席に戻った神村は、おもむろにさっきの本を取り出し、その中の一節を読み上げた。「なにかを選ぶ前のわたしは、いわば存在する純粋な欠乏、飢餓、空腹である。」何やら哲学的で意味深げな一節だ(後で確認したところによると、加藤尚武著『ヘーゲルの法哲学』という本だった)。動きを選ぶ前のダンサーは、存在する純粋な欠乏ということか? 何を見るか、何を聞くかを選ぶ前の観客も欠乏なのか? などと、わたしは頭を使ってみる。本は読まれるための道具となり、身体の各器官は本を読むために動員される。背、肩、腕、手のひら、目、脳、喉、口腔、唇、気管、肺、そして本の言葉を理解し、誰がその言葉を発しているのか確認するための、観客の目と耳と頭。
そうして展開される、日常的な使用目的を果たすためのモノ、身体、動きの中にも、使用目的を逸脱する楽しみがときおり顔をのぞかせる。歩く足はスニーカーのゴム底と床のリノリウムのあいだでギュッギュッと擦れる音のリズムを刻み、床に落ちるS字フックは涼やかな高音を奏で、読む踊り手の舌は少しもつれて、他の誰でもない神村恵そのひとの声を聴かせる。音は、日常的な動きから発しつつも、そこからの逸脱をしるしづけているのだった。なるほど、Living Soundとはそういうことか。きっと、必ずしも何かの目的に従事するのではない生きた身体の存在そのものを気づかせる、現にその場で鳴っている音のことなのだ。Living Soundは、「リビング」にいながらにして別の世界を垣間見ることを可能にしてくれる。
だがその音は、いつしか生身の動きを離れて一人歩きしていく。さっきの朗読、さっきのステンレスフックの落下音。目の前にはもはや存在しない物事から発せられるサウンドが、イヤホンから聞こえてくる。録音された音は、過ぎ去ってしまった時を、そして「いま」の時は過ぎ去ってしまうのだという現実を、上演空間内に招き入れる。哲学者ジュビレ・クレーマーは言う。「(発されるそばから消え去ってゆく音声の)〈存在(Sein)〉とは、〈消滅してしまった存在(Verschwunden-Sein)〉であり、それが〈その場に在る状態(Anwesenheit)〉とは〈不在(Abwesenheit)〉へと向かう途上にすぎない」。Living Soundの中には、つねにすでに不在が含まれている。生きることそれ自体、音と同じように、不在へと向かいながら存在することなのだ。そしてダンスも。
ダンサーふたりの動きは、不在をしるしづけるものたち、つまり音と、いまや不在のクリーニング店に振り付けられているようにも見える。箒で床を掃く動きは、もはや掃除するという目的を失って、シャカシャカという音を楽しむ遊びになっているように感じられる。歩きもそうだ。ギュッギュッとリノリウムを踏みしめながら進む歩みは、前に進むためというよりは、足音を鳴らす遊びに変わっているようでもある。ジャンプ。足音のリズムが一瞬中断し、大きな足音が鳴る。わたしはふと、「手遊びをしてはいけません。」というフレーズを思い出す。小学校でよく言われるやつだ。だがここではまるで、王様と道化の立場がひっくり返るカーニヴァルのように、禁じられた「手遊び」が堂々と日の目を見ているのだ。つねに消えゆくみずからの動きから放たれた音が、逆にみずからの次の動きを振り付ける。
いっぽうで、不在のクリーニング店もまた身体の動きを振り付けている。フックを天井にかけようとする神村の動作は、天井に残るクリーニング店のレールに振り付けられているし、床のリノリウムに刻み込まれた黒い円をなぞる木村の指、そしてその円の中に立って両手を広げ、ゆっくりと回転する彼女の身体もまた、ありし日の痕跡に振り付けられているようだ。木村はこの時期同時進行で、《6steps》というプロジェクトを進めていた。そこで彼女が編み出したのは、空間の中央にトマソン的に置かれた、どこへ行くでもない木の階段を使った「ダンス」である。舞踊学者宮下寛司が指摘するように、ここでは階段そのものが「振付」になっている。ダンスの動きは、階段によって多かれ少なかれ規定されて、階段ならではの動きが展開されていくからだ。《Living Room / Living Sound》にも、こうした「振付」のあり方を見出すことができるだろう。ただしその身体は、過去だけに動かされているわけではない。神村が観客に背を向け、部屋の角の、真っ白に塗り替えられた壁の隅に向かって跳躍を繰り返し、45度の角に沿って踊るとき、身体は、いま現在の空間によっても振り付けられている。
動きと呼応するかのように、過去から響いてくる録音の音は、今ここで生まれる音と重なり合う。ギターの音、蛇口から流れる水の音、箒で床を掃く音、壁を叩く音、スニーカーの足が床を擦る音、カウンターにものを置く音——陶器なのか、布なのか、木なのか、プラスチックなのか、素材で質感も変わってくる——、そして、水を飲む喉が鳴らす音。ただし、イヤホンから聞こえてくる音は、単なる生音の記録ではない。音響操作で音程が段階的に高められていく音遊びもときおり混じる。生音では鳴っていなかった電子音も混ぜ込まれているようだ。こうして無数の遊びで音と音のあいだの隙間が埋められていき、さながらtuttiのような賑わいへと高まっていく。
このざわめきの中で、わたしはイヤホンを外した。
——そこには、予想をはるかに越えた空虚が漂っていた。単に音がないだけではない。ついさっきまで確かに経験していたはずの出来事そのものが、あらゆるものたちの連関が、きれいさっぱり消え失せてしまったのだ。わたしは、にぎやかなリビングルームからひとり外へと放り出されてしまった。リアルな、まさに現にそこにある「いま」に居ながらにして、livingと名指されたものたちから切り離されてしまったのだ。
イヤホンを耳に戻すと、わたしの身体はふたたびあのざわめきの圏内に放り込まれる。しかし、そのにぎわいはもうまるで、この世にはいない幽霊たちのざわめきのようにしか聞こえないのだった。「リビング」の観客たちに囲まれながら、わたしはひとりぽつんと座っているような寂しさに襲われた。
音楽的に、この上演からピエール・シェフェールのいうミュジーク・コンクレートや、ジョン・ケージのいう不確定性を聞き取ることはもちろんできるだろう。だが、この上演はその焼き直しではない。ここで何より興味深いのは、このダンスの空間配置が、FMラジオのイヤホンを通してしか存在していないことなのだ。そもそも舞台芸術の空間というのは、物理的に与えられた箱とイコールではなく、いつもそのつどパフォーマティヴにつくりだされるものだ。動きや音、声は、空間内にいる人やモノの連関を構築することで空間をそのつどアレンジしていく。《Living Room / Living Sound》では、FMラジオの音声が身体やモノと強く関連づけられて配置されていたので、ラジオを止めたとたんにその連関のほとんどが失われてしまったのだ。厳密に言うと、音はなくなったわけではない。物音は、動きの起こるところでそのつど即物的に聞こえていた。だが、ラジオを通してアレンジされた空間の圏外で響くその物音は、共有されている上演空間の中にもはや位置付けを持たないのだ。
やがて、片付けられた舞台に、過去の音だけが残される。ダンサーも観客と同じように座って、真ん中にぽかんと空いた床を囲んでいる。過ぎ去ってしまった出来事が、幽霊のようにこの場にとどまり、遊び戯れている様を、皆でじっと聞く。その音の元になったさまざまな動きの幻影が、脳内をかけめぐる。木村玲奈の水を飲む音が、とりわけ生々しく、生きた身体の残響を、そして見えない身体内部の幻影をうつしだしていた。
しばらくするとその幽霊じみた音響は止み、窓が開けられる。外の空気が、外の音が入り込んでくる。だが、2024年4月20日午後の通りは静かで、特に目立った動きはないようだ。他の日、他の時間だったら、ここでも何かが起こったのかもしれない。出演者三名は口笛を吹き、ふたたび窓を閉じる。
最後に観客は中央にいったん集められ、部屋の模様替えが行われる。入口側は「客席」、奥側は「舞台」の配置になる。もはや居間ではない。劇場だ。かつてのクリーニング店の空間に劇場が立ち現れる。観客はガラス張りの壁に背を向けて座る格好になるので、通りへの視線も遮断され、視線は「舞台」に固定される。小さな音響機器が「舞台」の両端に設置され、信号的なノイズを奏でる。それが何の音なのかを聞き取るのは難しい。その音はもはや、何かの痕跡としては響いてこない。その「舞台」から「客席」へと示されるのは、さっき目にした動きのかけらだ。フックをかける動き、箒で床を掃く動き、本を読む動き……。しかし、手にはフックも、箒も、本もない。さっきの神村の動きを木村が、木村の動きを神村が繰り返す場面もある。いまそこでふたりがそれぞれ身に引き受けている動きは、そこにはもういない他者の動きなのだ。このように、「いま」の動きでは不在のものたちとの連関が途絶えてしまっているので、その動きはまるで見えない幽霊を相手にしているように見える。だがそれでもなお、これは《Living Room / Living Sound》と題された公演の一部なのだ。わたしたちは、見えない幽霊に、いまや不在の過去に動かされながら「いま」を生きている。
最後にいちど、自宅の「リビング」を思い出してみよう。そこでくつろぐわたしたちは、テレビやラジオやインターネットやCDといった、さまざまなメディアに囲まれている。そして、そのメディアが口々に居間の中へと流し込む情報と、親しい身近な人たちの言動と、居間の空間からの影響とが組み合わさって、住人の行動がかたちづくられている。中には「嘘」だって混じっているかもしれない。ひとりひとりの動きがかたちづくられるプロセスは、他人には見えないし、本人だって簡単に忘れ去ってしまう。FMラジオを通してアレンジされた空間の圏外から「水性」の景色を見たときのように、外からは、その人の圏内で起こっている結びつきは見聞きできないし、そこでは何も起こっていないかのようにすら思われる。でも、居間の外へと出てきた人を見るわたしたちは、わたしたちの知らない居間のなかにうごめく、見えない幽霊に動かされる人を見ているのだ。《Living Room / Living Sound》というダンスが動かしてくれるのは、生きた人それぞれが抱え持つ、幽霊たちの圏域への想像力なのかもしれない。
針貝真理子(はりがい まりこ)
演劇学、ドイツ文学
https://researchmap.jp/mari.harigai/
Photo: Hideto Maezawa
公演詳細:
プロジェクト・ユングラ《Living Room / Living Sound》@水性
2024年4月19〜21日 水性
演出・出演:神村恵、木村玲奈、土屋光
主催:プロジェクト・ユングラ
助成:公益財団法人セゾン文化財団
http://kamimuramegumi.info/living_room_suisei/