「意識」を見るダンスー神村恵『Strange Green Powder』

「意識」を見るダンスー神村恵『Strange Green Powder』
木村覚

イリュージョンのドラマと意識のドラマ

 20年ほど所謂コンテンポラリー・ダンスの上演を批評してきた私にとって、舞台上のダンスを見るとは一貫してダンサーの「意識」を見ることであった。コンサバティヴなダンス批評では定番の「コンポジション」や「身体のフレキシビリティ」などといった形式主義的な評価基準は私にはほとんどどうでもよく、時代を反映したテーマ性なども正直あまり本質的とは思えない。目の前のダンサーの頭の中を想像して、その中身が興味深く引きつけられてしまうかどうかがきわめて重要で、私にとってすぐれたダンスか否かを計る基準であり続けている。 体が動くとは、ただの物理的な運動ではない。人が体を動かしているのであり、さもなければ体は動いてしまっているのであり、それもこれも体と連動した心の働きが起こす出来事に相違ない。

 バレエの圧倒的な妙技を前にすると、驚愕しながら私はついダンサーの顔を見てしまう。澄ました表情に安堵と自信がほのかに漂う。いや、そうした人間的な徴を一切見せない、達観した顔も見てきた。そのようなとき、魔法にかかったようにただただうっとりさせられて、ダンサーの「意識」を読もうとする私たちの側の「意識」は麻痺させられてしまう。踊る「意識」と見る「意識」の間のスリリングなドラマ。それこそが見る価値のあるダンスに必ずともなっている何かなのだった。

 ルネサンス期の西洋以来、ダンスを評価する古典的基準の一つは「優美」と呼ばれた。優美の条件は、あたかも考えもせず行為がなされたように見せる「隠す技」にあると、16世紀に『宮廷人』を書いたカスティリオーネは言う。意識が隠されて優美は生じる。と言うのを裏返してみれば、目の前の人の頭の中では実は膨大な考えごとが一挙に進行中なのである。だからこそ隠す技の洗練には価値がある。それが西洋近代の文明観であり芸術観だった。けれども、それだと踊る「意識」は隠され、見る「意識」は消滅してしまい、イリュージョンのドラマに貢献する一方で、意識のドラマはその背後に追いやられてしまう。意識のドラマも一つのドラマだと注目するには、ことを裏返してみせる批評的精神がどうしても必要だ。単に肩書き名称ではなく、真正な意味で「コンテンポラリー(今日的)」な「ダンス」と呼ぶべき上演には、批評的精神は必須であり、そうした批評的精神に基づいたダンスの可能性を純粋に方法的に模索してきた日本における稀有な一人が、神村恵である。

タスクと意識

 神村の新作『Strange Green Powder』の2019年10月24日15:00の上演が始まってすぐ、囚われたように見ないわけにいかなくなったのは、ミュージシャン高木生の顔だった。見慣れたダンサーの顔とは異なり、陶酔の表情とは無縁の彼の顔は、微笑を浮かべるなど意識がクリアに表に出ている。見たり、聞いたり外にアンテナを張って、次の自分の動作を探しているのがよくわかる。対して武本拓也の顔は、ダンサー的陶酔を少なからず帯びており、美青年のルックは劇画性さえ醸している。その分、意識は安易に晒さない。もう一人、神村恵の顔の上には探偵みたいにも見える黒いキャップが乗っかっていて、澄ました表情に気になるニュアンスが付け足されている。

 舞台に上げられているのは、上記の特徴を持った三者三様の「意識」だ。とくにそう感じさせられるのは、4つのタスクを次々と遂行するという演目形式によるところが大きいだろう。目指すべき身体運動のゴール(理想)を指示する「振り付け」とは異なり、「タスク」はただ身体運動のスタート(基点)を指定する。「タスク」の結果はおのずとバラバラになり、何が出てくるかは毎回異なる。だからこそ、そのときその場の「意識」の出来事が前景化されるのである。

 まず神村が板張りの襖に「濾すstraining」と油性インクで書いた。目白庭園赤鳥庵の美しい床の間には、ガラクタにも見えるプロップ(美術道具)が幾つも置かれている。その中から、マイクスタンドを取り出すと、武本は片足を上げ、上体を横に傾けた。それを静かに別の二人は見ている。今度は、畳に本を開いた状態で立てる。すると、神村はその形状に似た形を全身で作って、両手を小刻みに動かした。さらに高木は、炉釜の風体を模写しようとしてギターの音を立てる。このとき、それぞれの「模倣する」ことが「タスク」の内容であろうと思われるのだが、とくに「濾す」と言うからには、単に外形の類似より外形は異なっても元のもののエッセンスを残す(茶色の粉末からコーヒーが濾されるように)ことが重要なのか?と、私の「意識」は問う。次々とプロップが置かれては、三人のプレイヤーたちは解釈(「濾す」)を心で構想し、体で実践してゆく。

 扇風機の首振りを高木のギター音が真似たとき、神村は高木に向かって、模倣の仕方が外見偏重で少し単純すぎやしないかと言葉を発し、やり直しを求めた。この上演で神村は、最良の解釈を提示しようというより、三者が解釈を試みているその「意識」の状態をそのまま展示しようとしているようだ。想像し、解釈し、やってみて反省し、見て、聞いて、嗅いで、触れて、戸惑い、驚く。この点で、彼らプレイヤーは周囲の観客と比べてさして特別な存在ではない。同じ畳の間で、私のような観客も、見て、聞いて、嗅いで、想像したり、解釈したりしながら、しゃがんだり、立ったり、歩いたりしている。本作で神村が試みているのは、踊る意識と見る意識とが累乗される豊かな空間の出現なのではないだろうか、そう思えてきた。

Azumi Kajiwara

喋る機械としての人間がそこにいる

 次の「測る(measuring)」では、ストップウォッチを武本が握ると、神村は身構えてときを測り出した。武本はスイッチを押し間違え、結果は曖昧になったのだが、「観客からの圧迫を感じながら、それがスッーと弱まり、気にならなくなるあたりが50秒くらいで、少し待って60秒のときを探った」と、神村は振り返る。交代して、今度は武本が「高木さんはご飯食べに行きました?」「何食べました?」と高木に喋りかけながら90秒のときを測る。90秒を随分と経過してしまった武本に「本番になると、練習と違うモードになるみたい」と神村は皮肉を含んだ感想を漏らす。言葉は、タスクに促された意識のありようを反省する。それが音声になって空間に投げ出されると、その場の複数の意識に働きかけ、揺さぶってくる。 3つ目のタスクである「運ぶ(carrying)」では、三人は廊下の縁や楽屋部屋まで広がって距離を作り、高木は庭にまで出て、離れた二人で架空の荷物運びを行なった。距離が離れると、荷物が重く感じられるといったやりとりが音声となって宙を舞い、観客たちは彼らに挟まれながらしゃがんだり、歩いたり、視線を止めどなく振り続ける。座席の類がない畳の劇場に入った以上、観客はプレイヤーに混ざりながら舞台に鎮座せざるを得ない。おのずと他の観客の表情も鑑賞対象になる。逆もまた然りで、私も多くの観客の視界に入って意識されたことだろう。そうやって、ここに集ったすべての意識が忙しく互いを反省し、反省は反省を促しさらに累乗してゆくのだった。

 そこにミルク倉庫+ココナッツ製作のオブジェが目に飛び込んでくる。ティッシュ箱の露出した紙が風になびいている。瓶に差したうちわが向かい合った扇風機の風に揺らいでいる。突如、魔法みたいに瓶が前に後ろに移動し出した。おかしなオブジェの運動は、そう言えば、冒頭からすでに出現していたのだった。「模倣」を試みていた冒頭から、何かの跳ねる微かな音がして見ると、足元では、ナッツのごとき形状が凹んだ箱の上で「さらっ、くらっ」と小さく踊っていたのだった。ユーモラスな挙動のどれもこれも小さなモーターとシンプルなプログラムの仕業である。それらがこの装置たちの「意識」なのか?なんて思っていると、いや、人間の意識こそまるでモーターやプログラムみたいではないかとの考えが不意に湧き出てくる。環境に刺激されて、その刺激を想像や反省によって整理しながら、言葉や動作で応答する「喋る機械」としての人間を、同じ「喋る機械」の人間が見ているという構図が立ち上がってくる。風が吹くと微かに振動して細かな音を立てているガラス戸だって、そんな環境に反応する機械のようだ。私たちを包み込んでいる赤鳥庵の繊細な素材(木と紙とガラスと)たちは、そこに集められたすべての物(者)たちの意識のデリカシーを静かに、しかししっかり活性化させていた。

意識のドラマをひらく

 最後(タスクの名は「混ぜる(mixing)」)に三人は、別々の方角を向いて正座すると、最初に神村が抹茶をポンと口に放り込んだ。次に高木は湯の水を口に蓄えた。最後に武本は空の茶碗を唇に寄せていった。三人の動作を混ぜ合わせると〈お茶を飲む〉行為が完成する。その混ぜ合わせはしかし目の前では起こらず、ゆえに観客たちの想像に委ねられた。 とはいえ、実際に三人を混ぜて〈お茶を飲む〉行為を頭の中で成立させるかどうかは、実はそれほど重要ではないような気がした。すでに私たちは何かと何かが混ざるさまをここで幾度も見てきた。混ざることで生まれるケミストリーの成果以上に重要だったのは、混ざる前と後とで起こる変化のかたちであり、混ざる前と後とのあいだに私たちが終始「いた」ことであったのではないか。そう考えると、神村による本作の試みがもたらした実りとは、私たち(プレイヤーたちと動くオブジェたちと観客たちと赤鳥庵と)がともにいることで生じる「意識のドラマ」を見事にこの畳の劇場にひらいてみせたところにあった、と言うべきであろう。それは重層的で複雑で錯綜した、そしてとても豊かで繊細なドラマだった。

Azumi Kajiwara

木村覚(きむら・さとる)

1971年千葉県東金市生まれ。美学研究者、ダンス批評。日本女子大学人間社会学部文化学科准教授。近代美学を専門としながら、コンテンポラリー・ダンスや舞踏を中心としたパフォーマンス批評を行っている。2017年までartscapeにて身体表現のレビュー担当。主な著書に『未来のダンスを開発する フィジカル・アート・セオリー入門』(単著、メディア総合研究所)、『スポーツ/アート』(共著、森話社)がある。2014年より「ダンスを作るためのプラットフォーム」BONUSのディレクターを務め、フレッシュなダンス創作の種を撒いてきた。

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振付・演出  神村恵
日程 2019/10/24 (Thu) – 10/27 (Sun)
会場 豊島区立目白庭園 赤鳥庵
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