幽霊であるのはどちらか?

神村恵

先日、一種の幽体離脱的な体験をしたという友人のアーティストの話を聞いた。
彼女は、実家に帰ると家族の運転する車に乗る。実家の少し手前に、いつも通るY字路がある。車は、そのY字路をいつも右に曲がって家に向かう。ある日いつものように彼女は家族が運転する車で家に向かっていた。車がそのY字路に差しかかったとき、その日はなぜか、車は左側に曲がった。彼女の理解は一瞬そのことに追いつかず、彼女の感覚の中では、自分の身体はいつものように右に曲がり、右側の道を進んでいくように感じられた。
物理的な身体は車に乗ったままY字路を左に曲がって進んでいるのだが、感覚的な身体は右側の道を進み続けていた。それはまるで自分の存在が二つに分離するような感覚だった。そして、その右側に分離していった感覚的な実体を、身体の方に引き戻して統合するのにはしばらく時間がかかった。彼女はこの体験から、身体と意識というのはパラレルにそれぞれの現実を持っているという感覚を持った、と言っていた。
私はこれを聞いて、その時の彼女の感覚が、身体的にトレースできるような気がした。そしてそれが、身体とイメージについてそれまで漠然と自分が考えていたこととつながったような気がした。

彼女が分離した感覚と身体を元に戻したとき、はたして、ものとしての身体が感覚の身体を引き寄せたのか、感覚の身体がものとしての身体に戻ってきたのか、どちらだろうか。一体どちらが本体・実体だと言えるのだろう。身体の中に感覚が含まれているというより、どちらかが常に優位に立つことなしにその二つはパラレルに存在している、と言えないだろうか。
私は最近まで、物理的な身体の方が実体で、それを把握し操縦するために、その身体をある程度抽象化して捉え、実際の身体の動きとイメージの動きを照らし合わせて動いていると考えていた。
感覚はあくまで身体に内在し、自分の身体を俯瞰的に把握するためにだけ、頭の中である程度それを抽象化して(点や線に置き換えるなど)身体の全体像を描き、身体の動きに認識を追いつかせている、と考えていた。つまり、一貫してリアルに存在しているのは重さや大きさを持ったものとしての身体であり、感覚的な身体は、それこそ幽霊のように、物理的な身体の必要に応じて現れたり消えたり、形を変えたりするもののように見えていた。
しかし、そうやって物理的な身体に根拠を置きすぎると、どんどん動くことから遠ざかって行ってしまう。極論まで推し進めれば、身体にとってリアルな動きは、機能的な目的を持った動き、生理的な身体機能(呼吸や発汗、消化など)や、外界からの刺激に対する反射的な行動(転んでとっさに手を出す、ものが飛んできたらよける、など)しか残らなくなってしまい、機能から外れた動きを自発的に生み出すことは全て嘘だということになりかねない。

ダンスにおいて、何をリアルなものと捉えるべきなのか、実在しているのは何なのか。私個人に限らず、全ての振付家やダンサーにとって、イメージと身体の関係をどう捉えるかは常に問題となってきた。
内的なイメージによって身体を動かしている、というのがまず用いられる手段だろう。それとは違う方法を探そうとすると、イメージの存在そのものを否定するのがもう一つの方法だ。しかし、身体を伴わない感覚のみのダンスがあり得ないように、身体のみの動きというものもあり得ない。ある動きの良さを描写しようとするとき、私たちは感覚で捉えられる質感について言及することでしかそれを達成できない。

例えば、階段を降りるとき、最後の段までもう一つあると思って足を出すと、だん!と足が床につっかえ、もう階段が終わっていたのを知る、ということがある(もちろん、登るとき足を架空のもう一段に向けて振り上げ、虚しく空振りするような、逆の場合もある)。二つの身体は、一瞬そこで分離するが、見えない階段を捉えていたはずの感覚的な身体は幻影としてすぐに消えてしまうように感じられるだろう。そして、また「現実の」足場と身体を確かめて歩き出す。
しかし本当は、その幽霊的な身体は、物理的な身体では進めない階段をそのまま降り続けているのではないだろうか、Y字路のもう一方を友人の分身が進んでいったように。だとしたら、私たちはもう一つの行き先を辿る可能性を消してしまうという、随分もったいないことをしている。

その見えない階段を降り続ける感覚的な身体に、より身体性・実体を与えていくことが、ダンスの中で追求するべき可能性として残っているとは言えないだろうか。物理的な身体と感覚的な身体がずれる地点が、まさに動きにダンス的な質感が生まれる瞬間だとも言える。Y字路、階段の終わり、道の行き止まり、何かに躓いて倒れる瞬間、など、感覚の身体が先へ進んでいける入口、感覚の身体を物理的な身体から切り離して飛躍させられるポイントは、実は日常の中にたくさん存在しているのだろう。

感覚的な身体に身体性・実体を与え、物理的な身体を抜け殻的に抽象化していくこと。そのための分岐点をもっとたくさん見出すこと、がもっと追求されてもいいはずだと思う。そしてその分岐点・飛躍の契機は、内的な感情の発露や、単調な動きの繰り返しや、まして大災害や戦争などの圧倒的な出来事などによって与えられるのではなく、自分のすぐ隣にある入口をすかさず捉え、そこから分離して進んでいく幽霊的な身体をなるべく遠くまで見送り、そちらの現実も二重に体験することにあるだろう。その二重性を持ちこたえる身体と感覚を鍛えることが、ダンスの中でまさに必要とされていることのように思う。

2013年7月

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