三宅舞《無駄な時間の記録 #4》レビュー|Review on “The Record of Useless Time #4” by MIYAKE Mai

 

4つのスコアが交錯する場所で不協和音を楽しむ

三宅舞

 
 2024年9月7日、横浜のSTスポットに着いた頃には、15時の開演よりもまだだいぶ時間があった。小さな入り口から中に入ると、正面にはむき出しの白い壁。おそらくその壁の前の狭いスペースがパフォーマンス空間なのだろうと想像される。その他の三方の壁沿いには平台(通常は平置きにして客席の台にしたり舞台の床上げをしたりする木製の台)が縦に置かれており、そこに今回のプロジェクトに関わるさまざまな記録(スコア、文章、レシート、ハンガーに掛けられた衣服など)が掲示されている。平台の壁の前には等間隔でいくつかの木製の小さな台があり、その上には一冊ずつ本が置いてある。それらのうちには今回のプロジェクトで使用された俳句全集や、プロジェクトのインスピレーションの基となった舞踊論の書籍やロジェ・カイヨワの『遊びと人間』などがある。部屋の三方を囲む平台の壁と書籍の置かれた台の前には背の低いベンチ椅子が設置されており、観客はそこに座るように促される。おそらく30人も座れば一杯になる。部屋の中心が広く空けてある(観客席は三方からこの空間を囲むことになる)ことから、正面の白壁の前だけでなく、この空間でもダンスが披露されるのだろうと予想される。部屋に展示された書籍、文章、モノたち、そして想定される観客とパフォーマンスとの距離の近さから、今日は密な空間を経験することになるだろうと、その部屋を見回した瞬間私は予感した。しかし、密だったのは空間だけでなく、時間もであった。
 開演と共に神村恵から、今回の「無駄な時間の経験 #4」は2021年に始動したプロジェクト「無駄な時間の記録」の4年目の成果披露であることが告げられる。このプロジェクトでは、今回の出演者でもある神村恵、岡田智代、たくみちゃん、増田美佳の4人のダンサーが、「スコアを使ってダンスを考える」という主旨の下で活動してきた。それぞれのダンサーが個別に考えたモチーフや手法で何らかの「動き」をスコアとして記録し、それを持ち寄ったうえで互いに議論しながら見直したり、その結果をまた動きにフィードバックしながら徐々に作品にしていくというプロセスを経てきたという。その3年目までの実施内容は大まかに以下のとおりである。

1年目:4人のダンサーがそれぞれソロとしての動きをスコアに記述しながら1つのダンス作品を制作、それを上演する。
2年目:4人が互いのスコアを交換し、それぞれが他のダンサーによるスコアを新たな解釈で上演する。
3年目:2年目までの上演を観ていないダンサーやアーティストにスコアを渡し、スコアから読み取れるものだけを基に上演してもらう。

 そして4年目の今回、これまでのスコアの旅路を経て、神村たち4人のダンサーは改めて自分たちのスコアと向き合い、共同作業の中で4つのスコアを合体させながらダンスの新たな上演可能性を探ってきたと言える。4年目で初めて舞踊研究者の宮下寛司がオブザーバーとして加わったことも、今回このプロジェクトが一つの節目を迎えたことで、ダンス表現の可能性とその方法論の探求の総括が目指されていたことの表れだろう。
 今回のパフォーマンスは、3つのパートに分かれている。パート1はすべてのベースである4つのスコアのデモンストレーション、パート2はさまざまなことが同時多発的に進行する特別な形での「休憩」であり、そしてパート3では、パート1で紹介された4つのスコアをいろいろな組み合わせで統合した作品が上演される。なお、4つのスコアの作成者・タイトルと全体の構成(やパート3で披露されるスコアの組み合わせパターン)は、観客に配布されたプログラムにも記載されており、観客が今目の前で起こっていることが何なのかを把握できるようになっている。
 「無駄な時間の記録 #4」は、プロジェクトの一連のプロセスを経て、「スコア(記録すること)」、「振付」、「ダンス」、「無駄な時間」という問題系についてダンサーたちが経てきた思考/試行プロセスを観客と共有しながら共に考える、という時間であった。よって、必然的にそれはレクチャー・パフォーマンスに近い形式をとっていた。観客はダンサーたちの経験、考えたこと、スコアの仕組みが語られるのを聞き、また彼らのスコアを見たり聞いたりしながら(スコアはその都度壁に投影されたり、ダンサーたちによって発話される)、それがダンサーたちによってどのように動きに変換されるかを目撃する。
 以下では、それぞれのパートを振り返り、最後にそれらすべてを受けて私個人が感じ、考えたことを記したい。

 

パート1:4つのスコアのデモンストレーション

このパートでは、まずはスコアがその制作者であるダンサーによって解説され、それから他のダンサーが実際にそのスコアを踊って見せるという形で、4つのスコアが観客にデモンストレーションとして提示される。

●増田美佳のスコア:「あたたかな顔」
 増田は、阿部青鞋(あべ・せいあい)による俳句をそのままスコアとして扱う。その理由として増田は、阿部の俳句には身体の部位を表す語が頻出することから、それらが「踊って欲しいのではないか」と思ったと語る。
 増田以外の3人が壁を背に立ち、増田が読む句に合わせて、その句に描かれる身体の部位に関わるイメージを動きに変換する。本来スコアには40句並んでいるが、今回はデモンストレーションとしてそのうちの最初の8句分の動きが例示される。初めは増田はこの句を一句ずつゆっくりと読み、3人のダンサーたちの動きもそれに応じて一つ一つの身振りを時間をかけてじっくり展開する。同じ句を基としていながら、3人の動き方やポーズはそれぞれに異なる。増田が「てのひらをしたへ向ければ我が下あり」と発すると、3人は両手を開いた状態で掌を下に向けるが、神村はそのまましゃがんで床に両手を付ける。岡田は立ったまま掌を下に向けた両手を胸のあたりの高さにキープする。たくみちゃんは、やや膝を曲げて体の重心を下ろしつつ、両手を腰のあたりまで下ろす。次に増田が「手の甲は自由にならぬところかな」と詠むと、神村は立ち上がって両手を背中の後ろに回し、岡田はやはり胸のあたりで両手の甲を互いに重ね合わせながら手首の先から両手をねじるように絡ませる。たくみちゃんは右手だけ手の甲を上にした状態で目の前に持ち上げる。それから彼の顔と上半身はゆっくりと左を向くが、持ち上げた右手はその動きに逆らおうとするかのように右方向に向かい、右手は上半身の背後に取り残されるような形に見える。このような具合に、8句が詠まれる中、3人はそれに応じて独自の動きを見せていく。一つの言葉が3人それぞれの中に生じさせるイメージは、相互にかなり異なることがわかる。
 2回目に同じ8句が今度は少し速めのテンポで読まれると、彼らは最初と同じ身振りを繰り返すが、一つ一つの言葉に対応した身振りの間の中間休止が短くなることによって、バラバラの身振りに見えていたものが一つのダンスのシークエンスに見えてくる。
 そして最後には、増田が句を発話すること無しに3人が動きだけを繰り返す。発せられる言葉という共通のタイミングを失ったことで、彼らが一つずつの身振りにかける時間はそれぞれに異なる。言葉が動きに変換される際の3人の間の違いは、その言葉によって生じる身振りそのものだけでなく、その時間の流れ方(緩急)にも表れることが意識される。

●たくみちゃんのスコア:「たくみちゃんの動く城」
 たくみちゃんのスコアは、彼が過去に制作したクレイアニメをイメージしながら自身で即興で踊った映像を基に、その身体表現をGoogleスプレッドシートに記譜していったものである。スコアは垂直方向に(上から下に向かって)読むようにできており、水平に並んでいるセルに書かれている内容は、同時進行する動きである。その仕組みはルドルフ・フォン・ラバンによるダンスの記譜法「ラバノーテーション」を思わせる。しかし、ラバノーテーションと異なるのは、そこに記載されているのがさまざまな動きを形象化した記号ではなく、言葉である点だ。それはむしろ土方巽の舞踏譜を想起させるような具体的な事象や象徴的なイメージを表すフレーズ、動きの指示、またダンサーが発するように指示されている言葉だ。左側のセルがベースとなっており、その右側にイメージや動きを表すセルが積み上がって(たくみちゃんの言葉によれば「建て増し」されて)いく。今回はデモンストレーションとしてその一部分が増田によって動きに変換される。
 増田が前に進み出ると、白壁にはスコアが大きく投影される。無音のまま増田はそのスコアを動きとして再現する。スコアの一番左のセルには「体が粘土になり、火で焼成される」とあり、そのセルが下に向かって続く途中から右側に「身体の右側面を重くして右側面で接地する」という具体的な動きの指示が書いてあるセルが始まる。この内容に沿うように、増田は棒立ちの状態から四肢を不安定に揺り動かしながら、徐々に右半身を床に向けて曲げ下ろし、そのままゆっくりと右半身を床に着ける形で横になる。その頃にはスコアではさらに下に続くセルに「粘土は焼くと縮むが、縮んだ結果上方向に伸びる。左腕が熱で温まり上に伸びる」とあり、その右隣のセルに「右前腕にかかっている重心を左肩に移動させる」という指示、そしてその少し後にさらに右側に「右膝を浮かせて右脚裏を接地する。焼成される粘土として立ち上がる」というセルが始まる。つまり、これらの内容や指示はすべて同時に実行されるということだ。増田は右半身を下にして横たわった状態から時間をかけて立ち上がるが、その際まるで何かに引っ張られるように、左腕が高く上方に伸びる。それから、彼女はやはりスコアの指示通り、左腕をゆっくりと自分の目の前の高さまで下ろすと、「綺麗な花瓶が焼けた」というセリフ(これもスコアに指示がある)を発する。このような具合で、彼女はたくみちゃんのスコアに記載されている内容を、その順番と組み合わせとタイミングのとおりに身体化していく。おそらく多くの観客は、彼女のこの一連の動きを、背景に映し出されたスコアと見比べながら「イメージの答え合わせ」のように観察していたろう。私自身は、増田のその都度見せる姿勢の輪郭や動きの中にスコアで指定されている「粘土」や「花瓶」のイメージを投影できるか、しばらくは自分の観察眼と想像力を試すような思いでそれを観ていた。しかし、彼女の身体表現は決して何かの具体をミミックするものではなかった。事実、私は彼女の動きに「粘土」や「花瓶」の明確な像を重ねることはできなかった。むしろそこに見えたのは、スコアが指定する抽象的かつ限定的な言葉によって増田がおそらくイメージしているものが瞬間的に浮かんではまた変形しながら次のイメージに移行していく、という流れのようなものだった。増田の身体は、何かを写し取るというよりも、スコアを刺激材料として自らの中に浮かび上がったイメージそのものに「成って」いた。私たちは(少なくとも私は)完全にはそのイメージを共有しきれない。しかし、それを想像したり、あるいはまったく違うものを連想するということはできる。増田の身体が示すイメージの曖昧さに自由を感じるか居心地の悪さを感じるかは、私たち観客次第だ。

●神村恵のスコア:「記録の時間な無駄」
 神村のスコアは、ダンサー自身の経験と思考の記憶に大きく依拠する仕組みを持っている。それにはダンサー自身による予めの準備作業が必要となる。準備しておくものは、まず自分が行き先や行き方を決めずになんとなく歩いた道順を記録した8つのルート。そして、何もしていない時に頭に浮かんだ断片的な考えを記録した25個のテキストである。これらのルートとテキストを使ってダンスを作るのだが、スコア上で指示されたその3段階のプロセスは以下のとおりである。

A. 後ろ向きで床に座り、指を空中→床→背中の順に移行させながらルート1~8を辿り、それと同時にテキスト1~25を発話する。右手と左手を交互に使う。
B. (a) 8つの中から一つ選んだルートの上を転がって進む。ルートとは別の方向に進もうとしながら、外から自分を押すようにしてルートの方向に自分を転がす。
(b) (a)で選んだルートを頭の中で辿りながら、それとは別のルートを歩く。
C. 正面向きに立ち、一つ選んだテキストを、客席に向かって一度明瞭に発話する。口の形や状態を変え、不明瞭な発話でそのテキストを言い、身体のどこかの部位による動きを即興で行う。動きながら、それが発話した言葉の意味を表しているかを考える。発話の仕方と使う部位を変えながら、7回それを行う。

 このスコアのデモンストレーションでは、上記のうちAとBの内容が実演された。まずは岡田が登場し、壁に向かい(観客に背を向けて)胡坐をかいて座る。彼女はそのままの姿勢で右手の人差し指を虚空に上げ、その人差し指で彼女の中だけで見えているルートを辿る。その間、日常的な何気ない考えや思いを独り言のようにポツリポツリと発する。しばらくすると、今度は左手の人差し指で床に別のルートを描き始める。そして左手の人差し指は今度は客席に向けられた彼女の背中の上を這う。この間も一定の間隔を空けて独り言は続いている。しばらくすると岡田は観客の方を向いて立ち上がり、それと同時に増田が彼女の隣に登場し、四つん這いになる。岡田が小さな歩幅でゆっくりと歩き始めると、増田はその横でまるででんぐり返しが失敗したように両足を抱えた姿勢でごろりと横向きに転がる。その後身体を起して四つん這いになり、別の方向に向かって同じようにごろりと転がる。増田がこのように起き上がり小法師さながらさまざまな方向にベクトルを変えながら動き続ける中で、岡田はそれとは関係なく自らのルートをゆっくりと進むだけである。時に転がった増田の身体が彼女の行く手を阻むが、岡田はそれに動ずる様子もなく足元の丸まった身体を避けて進んでいく。
 これを観ていた時の私は、彼女たちの動きに何を見出せばいいのかわからず困惑していた、というのが正直なところである。しかし一つ感じられたのは、彼女たちの人差し指や足やごろりと転がった上半身が辿っていたルートは、何の意図もなくただ「交錯」していた、ということである。人差し指が空中や背中に描いたルートは垂直方向または背中の湾曲に沿った面に沿っており、床に描かれたルートは水平方向に伸びている。そして岡田と増田がそれぞれ描いたルートは同じ床の上で交差していた。つまり、このデモンストレーションでは空間的に複数のルートやそれが辿る面がさまざまな角度で接触し合っていたのであり、私はそこに複数の(人)生の交わりを見た思いだった。この交わりは特に目的や意識を伴わないものだが(何しろこれらのルートは「なんとなく」選ばれたものなのだから)、それらはおそらく無意識レベルにおいて何らかの形で相互に影響を与え合っているだろう。また、興味深いのは、神村のスコアには上演に際しての注意事項として「記憶したルートやテキストを思い出しながらそれを身体で辿ると同時に、自分の身体が上演している現在の場所に存在していることを常に思い出すこと」と付記されている点である。これは、ここで描かれるルートには空間的なだけでなく時間的な交わり(このルートを実際に辿った時や発せられる言葉を思った時=過去と、これを再度辿っている今=現在との交差)も生じているということを思わせる。この空間的かつ時間的交錯や無作為の交わりという印象は、後述する本プロジェクト全体に通底する重要なモチーフを示唆するものだった。

●岡田智代のスコア:「記憶の壁」
 岡田のスコアは、2020年の東京オリンピックから正式種目となったスポーツクライミング競技にインスピレーションを受けている。この競技では、選手には競技開始前に目の前の壁を眺めて足場になる位置などを確認しながら最適なルートを考える、という時間が与えられている。これをヒントに、岡田のスコアはダンサーに他者から与えられたポイントを基に動きのルートを考案・記憶させ、それを身体に落とし込ませてから展開させる、というタスクを与えるものだ。よって、スコアは以下のようにシンプルな指示書の形をとっている。

付箋を壁にランダムに貼ってもらう
1.ルートを探り記憶する
2.ルートを再現できるまで身体に落とし込む
3.記憶したものを正面向きの空間に拡げる
4.連続して空間に拡げる
5.縮小する
6.記録する

 今回は8人の観客が一枚ずつ付箋を正面の白壁の好きな位置に貼り、それをたくみちゃんがルートとして繋げ、動きとして展開していく様子が披露された。壁面の上下左右あらゆる位置に貼られた8枚の小さく細長い付箋の位置を、たくみちゃんはまずじっくりと眺めながら確認していく。たくみちゃんは壁の右側から左側に向かって付箋を一枚ずつ順番に数えながら、8つのポイントを辿るルートを決める。「1、2、3、…」と声に出し、両手で交互に付箋に一枚ずつ触れながら、そのルートをシミュレートする。中には彼がジャンプしないと届かない高さにあるものや、くるぶしの位置ほどの低い箇所に貼られたものもあるため、その都度カエルのように跳びはねたり膝を曲げてしゃがんだりする。次の付箋が遠くにあれば、腕をいっぱいに伸ばして軽く跳躍しながらそれに向かう。何度かそれを繰り返して脳と身体にルートを覚えこませると、今度は彼は観客の方を向き、背後にある付箋が目の前の想像上の壁に貼ってあるかのように、それまでと同じように8つのポイントを左右の手で交互に示しながら全身でルートを辿る。その後も空中にある想像上の壁に向かって同じルートを手で辿るが、彼の身体の向きはその都度少しずつ左回りに回転するため、8つのポイントが彼の両手で辿られるたびに、まるで彼を取り囲む部屋があるように見える(パントマイムでよく目にする「壁」の表現のようだ)。しかし、身体の向きを変えながら彼の両手が何度も辿るルートは、四方八方に向いており、時には床にも現れる。つまり彼を取り囲む空想の空間は四角いボックス型ではなく、丸みを帯びたものに見える。そして彼の動きが少しずつその範囲を狭めていくことから、その空間が徐々に小さくなっていくように見える。まるで少しずつ空気が抜けて萎んでいく風船の中にいるようだ。
 このスコアは、とりわけ「他者」と「偶然性」の介入が目立つものである。今回については8名の観客という「他者」によって決められた8つのポイント(付箋の位置)が、たくみちゃんによって動きのルートに変換されるわけである。しかも8名は全員で特定のルートを意図して付箋を貼るわけではないため、出来上がるルートは極めて偶然的なものになる。しかし、そこに岡田のスコアにおける指示が創作的な「操作」として加わり、偶然的に発生したルートが空中で拡張および縮小するので、たくみちゃんの動きはそれに影響を受けながら展開するのである。とはいえ、そこにダンサーとしてのたくみちゃんの意思や創造性が無いかというと、そういうことでもないだろう。なぜなら、8つのポイントを繋げてルートを生み出すのはたくみちゃん自身であり、またそれを空間の中でどのように拡げ、どのように縮小させていくかの判断もたくみちゃん自身によるからである。このように、複数の他者の意思、偶然性、スコアによる創作的操作とダンサーの判断が複雑に絡まりながら出来上がったルートを、ただ真剣な面持ちで辿り続けるたくみちゃんの様子は、スコアをつうじて「他者と自分の“間”で踊る」という、ダンサーが抱えるタスクの重みのようなものを感じさせた。

パート2:休憩/おやつ/トーク/展示/パフォーマンス/雑談

 このパートには「休憩」という名が与えられてはいるが、実際にはおやつ、トーク、そしてパフォーマンスも提供されるという時間である。ただし、観客はそれらを享受してもいいし、誰かと語り合ってもいい、のんびり展示を観てもいい、トイレに行ってもいい。つまり、自由に時間を過ごすように促される。時間は15分間。神村の言葉を借りれば、それは「特に必要のない15分」だ。おやつとして配られるたまごボーロとエビせんは、舌の上に乗せてなるべく噛まずに口の中で溶かしながら食べることをおすすめされる。その間に、舞踊研究者の宮下寛司が前方の壁際に高椅子を持って現れ、そこに座るとマイクで「無駄」や「遊び」という概念や「ダンスを記録すること」についてのトークを始める。壁際の台に乗せられていた本が床にランダムに置かれ、ダンサーたちは空間内の思い思いの場所に陣取り、絵を描いたり、虚空を見つめながらゆっくりと四肢を動かしたり、床に寝転んだりしている。好き勝手にこの時間を過ごすことを求められていることを理解した観客たちは、それぞれのタイミングで席を立ち、それぞれの行動に出る。知り合いと雑談をする者、トイレに行く者、周囲の壁に貼られた展示物を眺める者、床に置かれた本をしゃがんでパラパラとめくる者、席に座ってトークにじっと聞き入る者。これらのことがすべて同時進行する中では、水滴の落ちる音を思わせる断続的な電子音が心地良く流れている。私は、まずは配られたたまごボーロを口の中にゆっくりと入れ、言われたとおりに舌の上で溶かしてみる。ボーロの懐かしいほのかな甘さがじわりと口の中に広がる。それから、展示物の中のスコアに軽く目を通してみたり、床にある本を手に取ってみたり、空間内をゆったりと行き交う人々の間を縫って歩いてみる。しかし、この狭い空間の中では他の観客やダンサーたちの身体とその視線との距離が否応なしに近く感じられ、「自分も見られている」という若干の緊張感を禁じえない。そんな中で目に入ってくるもの、耳に入ってくるものに完全に集中することはできない。たくみちゃんのスコアの中のセルの配置やそこに書かれた文字、床に寝転んでいるダンサーの表情、開いた本の目次に並ぶタイトル、これらが断続的なシグナルのリズムとなって私の目の前を通り過ぎていくだけだ。宮下が間断なく語るトークも、かなりの集中力を持って聞かなければその全体像をつかむことはできない。周囲のさまざまなものに気を取られながら私の耳に入ってくるのは、彼の発する「遊び」「冗長」「排除」など、何度も繰り返される言葉の響きだけであった。だが、これこそがここで狙われていた時間の過ごし方だったのではないかと思う。特定の「意味」を持たない時間の過ごし方。

パート3:4つのスコアを統合した作品の上演

 パート3は、プロジェクトの4年目の主眼的試みと呼べるだろう、4つのスコアをさまざまに組み合わせて上演する、という内容である。パート1で披露された順に、それぞれのスコアに増田→A、たくみちゃん→B、神村→C、岡田→Dとアルファベットが割り当てられ、これらA~Dのうちの2つを組み合わせてできる6パターン、それに4つ全てを組み合わせたものを合わせた全7パターンのダンスが順番に披露される。まず、その各組み合わせにおいて何が起こるかを振り返ってみる。

① B+C(粘土の小径)
 岡田と増田の二人が、壁に映し出されたたくみちゃんのスコアの冒頭部分からの指示に従った動きを見せながら、それぞれに断片的な言葉を発する。二人は観客に背を向けた状態で上半身を大きく前に屈めた姿勢で右手をぶらぶらと揺らし始める。その動きを続けながら「枝豆が止まらない」や「ハリネズミとハリモグラの違い」などとりとめのない言葉(断片的な考え)を次々に発する。彼女たちの右手や背中や腰はそのままたくみちゃんのスコアの指示に従って動きを展開するが、左手は人差し指を立てており、その人差し指は床や背中の上や空間の中を移動して、何らかのルートを辿っている。彼女たちの身体では一方ではたくみちゃんのスコアが指示する彫塑的身体運動(たくみちゃんはその身体を「粘土的な身体」と呼ぶ)と、神村のスコアが指示するルートを辿る指の動きと発話される断片的な考えとが並行している。

② C+D(レイヤード地図)
 まずは増田が自分の記憶しているアーケードの街並みと、自分がコンビニに行ってそこでアイスクリームを買うまでのルートを口頭で伝える(これが、神村のスコアが条件としている「ルート」となるのだろう)。その後、岡田と神村の二人が部屋いっぱいの空間を使って歩き回る。岡田の動きは、語られた情景が実際に脳裏に浮かぶようなもので、日常的なスピードで歩行し、コンビニ内で棚からアイスを取り出してレジで購入するまでの一つ一つの動きをなぞるように、パントマイムのようにして見せる。ただし、同じサイクルを何度も繰り返すうち、曲がる位置やアイスクリームを手に取る位置が少しずつズレていき、まるでコンビニの店舗の空間の外枠がだんだんと小さくなっていくように見える(これは岡田のスコアの「縮小する」の段階か)。他方、神村は異様なまでにゆっくりと歩を進め、一つ一つの身振りもゆっくりで、岡田が同じルートをサイクルのように何度も繰り返す中で、神村が見せる動きは一周しただけで終わってしまう。また彼女が辿るルートも岡田のそれとは違うようで、その身振りが示す意味も不明瞭である。果たして彼女が辿っているルートはコンビニでの買い物の風景なのか、あるいはまったく異なる場面を描いているのか、はっきりしないまま終わる。

●「回遊」の時間
 この後、5分間ほど「回遊」と名付けられた時間が流れる。4人のダンサーたちが縦横無尽に空間内を歩き回る、というだけの時間だ。それぞれが歩くルートこそばらばらだが、彼らはしかし一様に無表情で、観客に三方から囲まれた空間の中を背筋が伸びた姿勢でただ淡々と動き回る。背景には電子音が流れている。その無為な5分間、私はまるで水槽の中のメダカをただぼーっと眺めているだけのような気分になった。この「回遊」の時間を観客は後ほどあともう一度経験することになるが、この時間は何だろうか。ここまで私たちが目の前で展開するパフォーマンスから何とか読み取ろうとしていた記号やそこから連想したイメージの層を、すべて掻き回して分散させる渦のようなものだったのかもしれない。

③ D+A(落穂拾い)
 「回遊」の時間のあと、スコアの3つ目の組み合わせを披露すべく、空間の中央に立ったたくみちゃんの身体に、岡田と増田が付箋を貼っていく。彼の頬、足、胸、背中、膝に貼られた付箋には、阿部の俳句「人間を撲つ音だけが書いてある」を何文字かずつに分割した断片が書かれている。その後神村が登場し、たくみちゃんと向き合う形で立ち、彼の身体の各部位に貼られた付箋の位置を確認する。そして初めはとつとつとしたテンポで、右手と左手で交互に付箋の貼られた部位に触れながらそこに書かれた句の一部を声に出す。その触れる部位と対応する文字は次のとおりであった。

頬「にんげ」→足「んをう」→膝「つおと」→背中「だけがか」→胸「いてある」

これで、身体を面とした動きのルートが出来た。あとはそれを神村が記憶するまでこの流れが繰り返される。彼女の動きは少しずつスムーズにルートを辿り始め、また彼女が発する言葉の断片も「にんげ・・・んをう・・・つおと・・・だけがか・・・いてある」の「・・・」の休止部分が短くなっていき、句(フレーズ)として聞こえてくる。たくみちゃんについては、初めは神村のこのルート辿りを直立不動で受けているが、神村が繰り返し付箋のある部位を触れるのに合わせて徐々にその部位を彼女に差し出すように上半身をねじったり、足を前に出したり胸を突き出したりする。そしてその動きを続けながら後ずさり、神村から身体を遠ざけていく。神村もたくみちゃんの身体が少しずつ自分から離れていく中でも、まだ目の前にその身体があるかのように、付箋があった位置を交互の手で示しながら同じ動きを反復し続ける。たくみちゃんもまた、ゆっくりと後ずさりしながら彼女の手の動きに合わせて、まるでまだ身体を触られているかのように個々の部位を彼女の方に向かって差し出し続ける。ついには、神村は言葉を発することなく手の動きだけを繰り返し始める。その頃には二人の距離は2~3メートルほどになっている。二人がそれでも向き合いながら続ける動きは、相互に呼応する別々のダンスに見えてくる。パート1では付箋の示すルートはいわばソロダンスを生むものだったが、ここでは一つのルートが2つのダンスに分離していた。

④ A+C(もごもごアラーム)
 このパターンはたくみちゃんのソロで披露される。彼が③でも使用された句「人間を撲つ音だけが書いてある」を、初めは立ったままはっきりと発話し、その直後右腕と右脚を無造作に床に向かって振り下ろす。その後、今度は口を閉じたまま口の中だけで同じ句をもごもごと苦しそうに言ってから、軽くジャンプして床にしゃがみこみながら振り上げた右腕を痙攣させるように動かす。それ以降、立ち位置や初めの姿勢、視線の向きや口の形を変えながら同じ句を不明瞭に発音し、その後身体をでたらめに動かす、ということを繰り返す。この動きは、神村のスコアにある「口の形や状態を変え、不明瞭な発話でテキストを言い、身体のどこかの部位による動きを即興で行う」という指示によるものだろう。発話される句の「人間を撲つ音」というどこか暴力的な印象を与える言葉と、その言葉の後でたくみちゃんがまるで発作を起こしたように見せる突発的な激しい四肢の動きの間には、そのダイナミズムにおいて共鳴し合うものが感じられる。しかし、この動きが何か明確な場面を具現化しているかというと、そうではない。この俳句そのものがそうであるように、私たち観客はこの言葉と動きの組み合わせにおいて個々に奇想的なイメージを思い浮かべるしかないだろう。

⑤ A+B(闇鍋)
 増田が空間の中央部分に白壁を背に立つ。残りの3人は壁際に座り、彼女の背中に向かって一人ずつ連句のように俳句の一部をゆっくりと発話する(その俳句は阿部のものではなく、「機関車の 肩に光るは トンボかな」や「ねこじゃらし ざらざら音を ししおどし」など、おそらく3人が無作為に言葉をつなげてできているものである)。増田はそれを受けてゆっくりと腕や手を動かしながら、ゆっくりと回るろくろの上に乗っているかのように、身体をねじり始める。その動きは、発せられる言葉の内容(たとえば「トンボ」や「ねこじゃらし」)を思わせるものではなく、ただ何かの動力に突き動かされているだけのようだ。彼女の肩、指先、つま先は極度の緊張に反り返り、思い思いの方向へ向いている。ゆっくりと発せられる言葉の響きと、それを動きに変換しているかのような増田の身体が醸し出す張りつめた空気やその密度は、能舞台のそれを連想させる(増田の後ろに座している3人はまるで地謡のようだ)。とはいえ、能楽師の仕舞や身振りと違い、増田の身体運動は何らかの情動を内に秘めているというよりも、あくまで3人の投げかける言葉の音を純粋なエネルギー源としているように見える。ここで増田の「粘土的な身体」が動きに変換しているのは、書かれたスコアではなく音声として放たれるスコアである。

⑥ B+D(リンネンリ)
 この組み合わせでは、たくみちゃんのスコアにあるフレーズを書いた付箋が壁や床にランダムに貼られる。その後登場した岡田がその場所を確認しながら、「右手は花を持つ。右手自体が花になる」、「背骨から水が湧く」と、一つ一つ読み上げていく。次に、マイクでそれらのフレーズが再度読み上げられる中、岡田はそれが書いてある付箋を手で触れながら、そのフレーズがイメージさせる動きをする。そのようにして同じルートが繰り返されるうち、途中から神村も加わり、岡田の辿るルートとは違う順序で付箋の位置を追いながらそれぞれの動きを見せる。
 ここでは、たくみちゃんのスコアの中の具体的なイメージの一つ一つが、岡田のスコアの指示により複数の箇所に配置されることで、イメージの動きへの変換に空間的な広がりと連続性が加わる。いわば複数のイメージが各ポイントとなり、ルートを形成することになるのだ。それは、私たちの思考や身振りがしばしば特定の「場所」との連関の中にあることを示唆するようだ。たとえば、自分がかつて使っていた子供部屋に入ると、今でも当時から置いてあるぬいぐるみに触れ、その肌触りを確認してしまう、というような。そのぬいぐるみは、他の場所で触れるのではダメなのだ。それは、その部屋の、その棚の、その段に置いてあり、私はそこに手を伸ばしてぬいぐるみに触れることで、何か特別な感覚を得る。私たちはそれぞれ特定の場所と結びついた記憶や思考を持ち、それはまた身振りとも結びついている。私たちの中で、「場所」「記憶・思考」「身振り」はトライアングルのように繋がり合っている。一つの同じ「場所」であっても、それがどのような「記憶・思考」や「身振り」と結びついているかは、私たち一人ひとりで異なるだろう。岡田と神村の見せる動きとルートが少しずつ異なるのも、そのことを思わせた。

 以上の6パターンの組み合わせが披露された後に2回目の「回遊」の時間が流れ、その後、スコアの組み合わせの最後のヴァリエーションの披露が告知される。それは、4つすべてのスコアを一つの動きに集約する、というものだ。それが告げられた時、私はこれから見るものがどれだけ複雑で込み入ったダンスになるのだろうか、またこれまでフル稼働していた自分の集中力がこれ以上もつだろうかと一抹の不安をおぼえた。しかし、実際に披露されたものは私の予想を良い意味で裏切った。4つのスコアが辿り着いた最後の形態は次のようなものだった。

⑦ A+B+C+D
 短い暗転の後、明るくなるとまずは増田が一人で白壁の前に棒立ちの状態で現れ、せいぜい2~3秒の短い動きを見せる。その動きの直後、またすぐに暗転。そして残りの3人についても同様の流れが続く。つまり、この最後の組み合わせのデモンストレーションはものの1分程度で終わってしまう。彼らが一人ずつ見せる瞬間的な動きは、それまでスコアの身体的変換の場面のどこかで生まれてきたいくつかの身振りやポーズを繋ぎ合わせて、それを早送りしたようである。彼らがそれぞれにピックアップした身振りやポーズはさまざまで、そのヴァリエーションは4者4様だ。彼らが見せる動きのヴァリエーションが一つずつ暗転を挟んで入れ替わり立ち替わり秒刻みに流れていくさまは、さながら身振りのカタログをパラパラとめくって見ているような、断片的で淡白な印象を与える。その短い動きが披露されるたびに、観客の間では小さく笑いが起こった。それには、これ以上溢れる記号の波の読解に集中力を傾けなくてもよいという安堵感も含まれていたかもしれない。しかし、この場面が私たちの心を快くほぐしたのには、他にもっと大きな理由があったように思われる。これまでのデモンストレーションでは、比較的ゆっくりとした、だが密度の高い動きが多かったのに対し、この最終形にはそれまでとは別の意味で「無駄」な様相を示す、ダンスの試みの集約が見られたからではないだろうか。ここまでは、ある一定の範囲で、ダンサーたちが一つ一つの動きやイメージにじっくりと向き合い、いわばそれを「真剣にもて遊ぶ」というプロセスが見られた。しかし、4つのスコアをすべて組み合わせた段階では、それに伴う動きやイメージは凝縮されたことで押し潰されたように不明瞭になり、そこから生まれた短い動きの流れはより一層「意味」の希薄さを強めていた。しかし、4つのスコアの集約によるこの最終段階こそ、宮下がパート2でのトークで指摘していた「遊びはそれが遊びなのか真剣なのかわからなくなる時において初めて遊びである」という状態を示唆している。だからこそこの場面は滑稽だが半ば愛おしくもあるものとして観客の笑いを惹き起こしたのだろう。この最終段階のダンスは、破壊的創造の賜物である。神村たちは、自分たちで作ったスコアをいわば自らの手の中で握り潰しているようなもので、その欠片を寄せ集めた混合物を見せている。そのいたずらっぽい彼らの遊戯的身振りに、私はダンスへの憧れと期待の思いを新たにした。

断絶、分離、不協和音を求める身体へ

 最後に、現地で感じたことを思い出しつつ、このパフォーマンス全体が私個人にとってどのように位置づけられるかを記しておきたい。今回のパフォーマンスを鑑賞しながら私が心地よく感じていたのは、彼らのスコアおよびその身体的変換に、押しつけがましい「わたし」というものも、それとはまた逆にロマンチックな「普遍的なもの」のどちらかをでも表現しようという意図が感じられなかったからである。彼らのスコアは、個々のプライベートな内面的衝動や感情などではなく、何らかの事物や人との関係の中で生じる動きやイメージを出発点としている(それは、他者の俳句を使用した増田や他人に付箋の位置を選んでもらうという他者の恣意性に拠る岡田の場合だけでなく、過去の自分の作品を基にしているたくみちゃんや自分の脳裏に浮かんだ考えをベースとしている神村の場合も同様である)。2024年11月24日に開催された本プロジェクトの報告会でも、増田は「自分のダンスの素は〈外部〉にあると気づいた」と言っており、また神村も同様に「スコアは、内発的なものよりも何かへの〈反応〉、何かとの〈関係〉の中で起こる」と指摘している。その点において、このプロジェクトは誠実な態度で「他」へと開かれている。それは、私たちを取り巻く世界における事物が織りなす星座の中に自らを投げ入れることであり、そこで生成するイメージに身を委ねることだろう。
 ただし、だからといってこのパフォーマンスは神秘主義的な態度に陥らない。私たちの身体や精神が自然や宇宙との神秘的な照応関係にあるなどという反文明主義的かつ半ば宗教的な言説に結びつくことはない。なぜならこのパフォーマンスは、まさに「スコア」という媒体(メディウム)をつうじて、人為的かつ遊戯的に構築されているからである。複数の要素(ここではスコア)は結合されることで、それらの間に境界(結合部のようなもの)が意識される。異なる複数のものを繋ぎ合わせた時に生じるこの境界は、繋ぎ合わされたものの中に生じる「断絶」とも呼べるだろう。逆説的なようだが、断絶は、一つのものを複数に切り離すことだけではなく、複数の要素を繋ぎ合わせたり組み合わせたりすることによっても生じる。スコアの扱われ方やパフォーマンスの性質上、この文章の中でもたびたび「繋ぎ合わせる」(または「繋がっている」)という言葉が必然的に頻出することになった。しかし、神村たち4人のダンサーがスコアという手段をつうじて異なるものを結合したり交換し合ったりしながら試みているのは、ダンスによって私たちの間に「共通のもの」や何かとの「共鳴関係」を見出すということではないだろう。彼らが探究しているのは、むしろ種々のものの間の接触の中で生じるこの「断絶」をスリリングに見せることではないか。
 ここで言う「断絶」は分断や没交渉を意味するものではない。断絶の経験は他者との接触や結合の試みによってこそ生じるのであり、複数のものの間にある相違(有り体に言えばそれぞれの個性)はそれらが相互に交差することによって認識されるのである。そして、その意味での「断絶」は、何か特定の経済的/社会的意味を持つ行為においてではなく、本パフォーマンスが試みていたように、偶然や無為を受容する姿勢をもって営まれる「無駄な時間」における他者との出会いの中で、より強烈に経験されるのではないか。この経験は、生きるうえでの「豊かさ」と呼べるようなものをもたらす(他により良い言葉が思い浮かばないので、ここではとりあえずこれを「豊かさ」と呼ぶ)。それはまるで現代音楽において不協和音を聞いた時に感じる、表現の可能性が開かれたような、自分の中の人間理解が広がりを見せたような、あの感覚に近い。私は、今回4人のダンサーが奏でていたような不協和音を楽しめる身体感覚を持ち続けていたい。そのためには、断絶の経験を恐れてはいけないのだ。
 このプロジェクトが(私が思うに)接触や結合をつうじた断絶の経験という「豊かさ」に向き合おうとしたことは、これが他者との接触が極度に制限されたコロナ禍の中で始まったことと無関係ではないだろう。作家の平野啓一郎がかつて「分人」というコンセプトを提唱した。私たちは決してもともと一つの「本当の自分」(それを「個人」と呼ぶ)としてあるのではなく、さまざまな他者との相互作用の中で生じる多様な「分人」の集合体としてある、というコンセプトだ。そこで重要視されているのは、やはり他者との出会いやコミュニケーションであった。これが無いと、私たちを構成している「分人」が生じないからだ。この「分人」の「分」の字が象徴するのは、他者とのコミュニケーションの中で私たち自身の中で生じる「分離」の経験と言える。これは、上記の「断絶」の経験とほぼ同義と見なしていいだろう。コロナ禍において他者との接触が制限されたことによって、私たちはこの分離(断絶)の経験に飢えていたのだ。ドイツの演劇学者ギュンター・ヘーグもまた、ある要素が「他」との接触において自らを脱措定することで帯びるエネルギーを「分離のエネルギー」と表現する。そして、この分離のエネルギーを積極的に起こそうとする姿勢を「越境文化的(トランスカルチユラル)」と呼ぶのである。今回、4人のダンサーたちはスコアの源泉となる要素の選別において既に「他」へと開かれているが、さらにその美的構築のプロセスにおいてもスコアを組み合わせたり自分から手放して他者へと渡すことで変容させるなど、分離のエネルギーを惹き起こす「他」との接触を試みている。その点で、「無駄な時間の記録」プロジェクトはダンス界における越境文化的な営為と言えるだろう。


三宅舞(獨協大学、専門:演劇学、ドイツ学)
https://researchmap.jp/maimiyake

記録写真:松本和幸
公演詳細:http://kamimuramegumi.info/record-of-useless-time-4/