『無駄な時間の記録』への覚え書き 宮下寛司|Text by Kanji Miyashita for “The Record of Useless Time”

『無駄な時間の記録』への覚え書き

宮下寛司

 「無駄」であるということを言い換えるならば、有用でなく、効果的でなく、非効率的である。そうであるならば、そのような状態は改善され排除されなければならないといえるだろう。ある体系全体に対して合理的な寄与を示すことができない要素が無駄なのであり、あるいはある要素がそのような寄与を成すことができない限りで無駄なのである。ある体系の目的に対して合目的でない要素が無駄なのであり、すなわちその体系のうちで説明できない要素もまた無駄といいうる。その意味で無駄とはある全体に対する否定性を持つ要素といえるだろう。
 また、無駄は時として冗長性と言い換えられることもある。冗長性はそれ自体として効果的に機能しないものの、体系全体が陥る不測の事態に備えて与えられた空白地帯である。合理化され尽くした体系は理想的な環境でしか機能しないために、現実の様々な条件に対応するいわばリスクヘッジとして冗長性が体系に対して与えられる。このような冗長性はすべてのリスクをカバーできるわけではなく、起こる見込みの高いリスクに対して対応できる範囲で体系の中に冗長性に対する余地が与えられる。こうした冗長性はITシステムを構築する際に用いられるテクニカルタームであるが、時として余白や余地という言葉でもって言い換えられて社会の中の有用性として比ゆ的に用いられることがある。ある体系を維持したいのであれば徹底された合理化はむしろ忌避される傾向があるのであり、むしろ余白や余地というゆとりをもって体系は設計される。時としてその冗長性には「開かれたありかた」や「柔軟さ」がそこには付与されるだろう。「一見すると無駄に見えることもそうではないことがある」という人生の教訓でしばしば聞くような警句がここでは成り立っている。そして冗長性こそが体系それ自体の定義に関わることすらある。例えば、民主制度は独裁制などの他の政治的制度に比べれば意思決定のプロセスにおいて冗長にならざるを得ない。さらに民主的な意思決定はその原理を追求し遵守するほどに冗長になるが、それでもって他の意思決定の形態から差異化される。(投資や経営など迅速さが常に求められる意思決定の現場において民主的であることはしばしば忌避される。)ただし、冗長性こそが民主的であることを担保するにしても、どこかで意思決定を行うのであれば、現実的にそれは無際限に認められるものではない。したがって、冗長性こそが本質的な定義に関わるとしても、それは「どの程度冗長でありうるのか、あるべきなのか」という冗長性の有用性が問われることになる。
 ある体系の構築において冗長性を予め含み持つということはひとつの戦略である。しかしながら、私たちの生はシステムを必要に応じて都度構築することで成り立っているのではない。私たちの生は社会的な総体に既に取り囲まれており、その全体を見渡すことができない。そこで私たちにできることは社会の諸領域を体系化すなわち対象化することである。無数の要素によって成り立つ社会、その中で体系化された領域や活動においてこそ無駄を見出すことができる。言い換えるならば、分節化し体系化しないのであれば社会的な総体において徹底的に無駄なものは見出せない。体系の内部における排除の仕組みが働かないからだ。有用な無駄である冗長性はその体系の維持される限りにおいて認められるのであり、翻ってその冗長性にすら寄与しない無駄はその体系を最適な状態から遠ざけ機能不全に陥れるリスクすら持つ。冗長性として無駄に有用性を持たせることは、体系内の必要によってのみ可能なのであり、その決定は政治的であるといえる。例えば、民主主義において無駄ではなく冗長性として捉えられる要素や行いは自明ではなく、その線引きはまさしく民主的な意思決定を実現するために決定されるのであり、この線引き自体が政治的なのである。
 無駄がある体系の持続可能性を破壊しうるために排除されることによって体系の輪郭が見いだされることは、ジュディス・バトラーによる自己同一性に対する構成的外部と類似するが、無駄はあくまで排除されうる/しかるべきであり、実際には体系の内部に留まりうるという点で異なる。無駄は体系の自己同一性を限界づけるかもしれないが、その批判的可能性はないかもしれないという点で構成的外部よりも否定的である。もしそうであるならば、ある体系においてあらゆる有用性(冗長であること、贅沢であること…)を剝ぎ取られた無駄に何を見出すことができるのだろうか。
 このプロジェクトにおける「無駄」とはいわゆるコロナ禍における過ごし方にヒントを得ているらしい。この期間には様々な活動が停止してしまっておりどうしようもない空き時間が生まれた。それは余暇とも異なる時間であり、その時間に行ったことは言ってみれば「空振り」である。プロジェクトのモチベーションには多かれ少なかれこの空振り自体を記録することが含まれているといえるだろう。すなわち無駄な「時間」の記録とは、生きることにおける空振りした時間の記録だ。そこには、普段の生活では見過ごしてしまうようなちょっとした時間の豊かさを留めるということだけではない、無駄の持つ破壊的な性質が書き込まれうる。すなわち様々な要因(経済的・政治的・社会的)によって構造付けられた私たちの生きる時間に対する無駄である。無駄にはたとえ(建設的な)批判的可能性がなかったとしても、私たちを規定する生の時間に挑戦することは可能である。無駄な時間は、生を規定する時間に対して生産的な提案を行うことも、それが批判として全く意味をなさないことも、そしてそのような時間を破壊してしまうこともありうる。私たちを規定するからこそ社会的な紐帯をなす時間が、限りなく個別化されてしまうという意味での破壊である。無駄な時間の創出はこのような結果を予測不可能にもたらす。したがって、無駄な時間の創出とは、予測できない結果への賭けであり、今ある時間の体系をもてあそんでしまうことであるといえる。ドイツ語で遊びを意味するSpielは英語でgameとplayの両方の意味を併せ持つ。無駄な時間の記録における無駄とは、余地や余白という冗長性を意味する「遊び」より根源的な遊び(Spiel)へと―スコアの制作者すらも予測できない方法で―投げ出す目論見が見え隠れするのではないだろうか。

 興味深いテーマとタイトルを冠していることはさることながら、このプロジェクトはスコアを通じてダンスを立ち上げるプロジェクトである。ここでスコアとは「動きの記録や指示を平面上に記述すること」と定義されている。西洋におけるダンスを指示・記録するための言語メディアの成立は、トアノ・アルボーによる『オルケゾグラフィ』(1589)の出版に遡ることができる。これをもとにコレオグラフィー(Choreography)=振付という語が成立する。この語は古代ギリシア演劇において用いられていた「コロス」と書記を表す「-グラフィー」という接尾辞による造語である。コロスは、舞台上に現れる集団であり、またそれらによる踊りでありそして彼らが現われる場所それ自体を意味する。それゆえにコレオグラフィーは「踊りを記す」という意味になる。振付それ自体には、実際に踊られた踊りを記録し、その一方でその記録方法を通じて踊りを作り出すという二側面がある。前者については「記譜(Notation)」と呼ばれる方法論が開発されてきた。身体運動を言語や視覚的記号へと移し替える作業は間メディア的作業であり、元の情報をすべて転換できるわけではない。それゆえに、言語や記号というメディアの特性においてどのような情報を取り出して記録するかが問われてきたといえる。西洋のダンスは長らくバレエが中心的であり、バレエの再現性を高めるための記録方法が発展してきたことを前提に、記譜法は振付のためのシンタクスを構築した。これが共有される限りにおいて踊りを再現するために記録するだけではなく、どのようにダンスを観るのか(=何に注目すべきか)という価値、ひいては何がダンスでありうるかという規範的価値が形成されることになる。すなわち振付における2側面はダンスに関する規範の形成を通じて現れる。
 モダンダンス以降の時代においてダンスとは何であるかという定義上の問いに対してバレエというメディア的条件が必要でなくなると、ダンスに関する規範は存在論的定義を伴うようになる。(ダンスとはエフェメラルなものである…など)振付の方法論はこれ以降、規範的価値に応答するために開発されるものであったが、同時にダンスと振付の存在論的差異が意識されるようになる。例えば、ルドルフ・フォン・ラバンによるラバノーテーションは、身体運動に対するシステマチックな記譜法である。この記譜法は、ダンスの規範よりもそれを支える近代の身体の規範に即して作り出されている。
 スコアと呼ばれる方法論が振付の歴史に登場してくるのは、ポストモダンダンスの時代を待たねばならない。ポストモダンダンスは、西洋の芸術史に鑑みればネオ・アヴァンギャルドの時代に位置し、ダンサーたちは実際にその時代に活動したアーティストたちと美的戦略を積極的に共有している。すなわち、日常と芸術の徹底的な超克である。美術の領域で言えば、コンセプチュアル・アートが登場してきており、ミニマル・アートと同様にポストモダンダンスへと影響を及ぼしているといえるだろう。それはとりわけ言語テクストの使用に関する方法論である。そこでは、ネオ・アヴァンギャルドにおける美的戦略は、詩的言語を用いず様々なテクスト・マテリアルの引用を用いることで達成される。[1] このようなコンセプチュアル・アートの引用という戦略は、スコアにおいて部分的にみられる。スコアにおいて引用されるのは、特定のテクストというよりも他の言語使用(日常言語やダンス以外のジャンルの言語使用など)の方法それ自体である。すなわち記譜法が目指していたダンスに固有のシンタクスを形成することを拒否し、その読解が構造的には開かれていることを目指すのである。読解可能性に開かれたテクストとしてのスコアは、その実現においてタスクの遂行と呼ばれる了解を伴うようになる。
 なお、同時期において登場した舞踏の記譜法である舞踏譜は確かに土方巽による独自の記譜法であり類型化が可能である。しかしながらそれはシンタクスというより舞踏身体に対するアレゴリー的言語と呼ぶほうが正しいだろう。アレゴリーとは、ヴァルター・ベンヤミンが定式化したように、図像的イメージと言語の乖離が前提となる比喩表現である。その乖離があるからこそ、イメージと言語の間にある任意の繋がりは読解を通じて暫定的に埋め合わされていく。身体的イメージと言語の間には原理的な乖離があるからこそダンスと振付は異なる位相の営みとして捉えられるが、それは振付や記譜法、スコアがすべてダンスに対するアレゴリーであるということではない。アレゴリーである場合、一義的に読解可能なシンタクスが秘匿され続けることに特徴がある。
 『無駄な時間の記録』においてスコアのほとんどは日本語による言語記号が使用されている。ポストモダンダンスひいてはネオ・アヴァンギャルド時代の言語使用の特徴を共有しつつ、部分的には舞踏譜に似たアレゴリー的な部分を共有している。しかしながら、起こすべき運動を参照させるミニマルなシンタクスもまた部分的に認められる。現代において振付や記譜法固有のシンタクスはどのように展開しているのだろうか。例えば、ウィリアム・フォーサイスはフランクフルト・バレエ団の活動においてカンパニーで共有するための言語を作り出すための綿密なシンタクスを形成した。バレエの言語要素を用いながらクラシックバレエとは異なる目的で構造化しなおしている。一定のテクニックがあればこのシンタクスは使用可能であるが、それは再現可能性を目指していない。むしろ、その綿密さと情報量の多さゆえに「不可能な振付」と呼ばれている。[2]ダンサーによるコマンドの選択や解釈こそがパフォーマンスにおいて求められるのであり、シンタクスを持つ振付においてもタスクの遂行として認められるような余地が振付に与えられている。この不可能さとは、言語記号の使用につきまとう主体の不可能性である。(完全に言語記号を扱える人などほとんどいない。)すなわち、フォーサイスの振付が目指すのは、振付とダンサーとの間で生じざるを得ない不和の生成である。
 歴史的な経緯をたどって分かるのは以下のようなことである。1. 振付(記譜、スコア…)はその記号的表現でもってダンスが現前する方法を選ぶことができる。(ダンスとは何かという問いそれ自体に応える)2. 振付は記号メディアではなく、どのようにダンスを行うかという指示原理それ自体である。すなわち、振付が実際に振り付けているのはダンスではなく「ダンスをする」主体の行為である。そのように考えるならば、多様なメディアを横断して振付はありうるのであり、様々な対象を振付として見出すことも可能である。そしてダンス以外のあらゆる行為を行うための振付的原理を探し出すことも可能である。スコアの開かれた読解可能性はこの振付の発見という行為それ自体がスコアの中に書き込まれているから成立するといえる。そのように考えるならば、『無駄な時間の記録』は、振付という営みに潜在的に含まれうるダンスという無駄の発見、そしてダンスにおいて余分となりうる言語テクストという無駄の両側面を生み出そうとしているといえるのではないだろうか。そして観客はそのような無駄を本来的には観客の自由として欲望していることにいつか気づけるのではないかと考えている。

[1] Kitz, Liz: Words to Be Looked At: Language in 1960s Art. 2010 Cambridge.

[2] ゲラルト・ジークムント「ウィリアム・フォーサイスにおける交渉的振付、文字そして法」『研究年報』(37)、2020年、31-53頁。


宮下寛司(慶應義塾大学非常勤講師)