とつとつダンスプロジェクトマレーシア滞在日誌|Malaysia Tour Journal

認知症のケアとアートの境界を探る「とつとつダンスプロジェクト」に参加し、2022年12月24日から2023年1月8日までマレーシアに滞在し、現地でワークショップやパフォーマンスなどに参加しました。滞在中に書いていた日誌を、このサイトにも掲載します。

とつとつダンス 詳細 https://torindo.net/project/totsutotsu/

ーーーーー

2022/12/24

16時に成田空港に集合し、手荷物預けにさっそく手間取る。AIで効率化されているはずが、何人かのパスポートや航空券のデータがうまく読み込まれず、結局別のカウンターに回され、人間の手を介して手続きが完了する。出国審査まで自動化されていることに、少し残念な気持ちになる。自分の国の外に出るという感慨はなく、ボーダーを単に通過する感じ。国境や国籍は概念や制度上のものに過ぎないから、手続きを簡素化する方が実態にあってはいるのだろうと思うけれど。3年ぶりの海外でテンションの高まりを抑えられず、空港をひたすら歩き回る。

機内では、前から気になっていたアン・リーの映画『Life of Pie』を見つけたので見る。心温まるファンタジーかと思っていたら、分かり合えない他者と、どう共生しながら生き残るかという過酷なサバイバル物語だった。難破船から奇跡的に救命ボートに乗り込んだ少年が、同じボートに乗ってきた虎に食われないために、餌を与え、距離を取りながら手名付け、漂流を続ける。捕食者と非捕食者、世話されているものと世話しているものという関係の中に、同志的な意識も育ってくる。しかしようやく島に流れ着くと、虎は振り返りもせずに森の中に消えてしまう。映画の中で餌を定期的に与えられている虎と、機内食を与えられるがままに食べている自分が重なる。

現地時間で1時半ごろクアラルンプールに到着。飛行機の中で降りる準備をしている時点で、モワッとした南国の空気を徐々に感じる。入国手続きの列がなかなか進まず。前にいた人々が、滞在日数や目的、持参している現金額などを事細かに聞かれているので身構えていたが、私は一言も聞かれずマスクを外せとも言われず、あっさり通された。日本のパスポートという特権を持っていることを、久しぶりに自覚する。空港直結のホテルに移動し、朝4時くらいにようやく就寝するも、海外に来たという興奮もあってなかなか寝付けず。

12/25

6時ごろ鳥の声で目が覚める。爽やかな音というレベルではなく、建物のすぐそばで大群がずっとさえずり続けている。それ以降眠れなくなり、8時過ぎに朝食会場へ。数種類のカレーはどれも甘辛く濃厚な味。ココナツ餅のようなデザートもおいしかった。イスラム系や中華系、欧米系など、違う容貌や雰囲気の人々が混在しているのを、透明人間のような不思議な気持ちで眺める。

チェックアウトし、今度はペナン行きの飛行機に乗るために、ターミナル2から1に向かうシャトルバスを辛抱強く待つ。バスに無事乗り込むが、途中で謎の停車時間があったり、減速していきなりドアが開くと空港職員かと思われる人が乗ってきたり、どこまで制度として決まっていて、どこまで慣習で、どれがその場の新たな出来事なのか、区別がつかない。時刻表もあってないようなものだろう。

1時間ほどのフライトでペナンに到着。現地のKさんと合流し、タクシーでホテルへ。自由時間があったので、ホテル近くのBlast Bear Cafeというチェーンぽい店に入ってみる。マフィンとアメリカンコーヒーのセットで約10RM(300円)。コーヒーが美味しい。店員は皆若く、カウンターの中にやたらたくさんいて楽しそう。マレーシアのお店の人は基本的に皆フレンドリーで、リラックスしている。

夕方、皆で繁華街のジョージタウンに移動し、街をKさんに案内してもらう。彼女から、マレーシアでは対日感情はいいけれど、旧日本軍についてはいまだにドラマなどで悪役的に描かれることが多く、日本人の役者はそのような役をやりたがらないので、中華系の人が演じることが多いという話を聞く。それって役者本人の感情的な問題なのか、同じ国籍だというだけで、演じている悪人のイメージがその役者本人に固定されてしまうからだろうか。太平洋戦争の東南アジアでの日本軍の振る舞いについてほとんど知らないので、勉強しなくてはと思う。

12/26

ホテル向かいのローカルな食堂で朝食。紙に包まれたちまきのようなものとミルクティーを注文。紙を開けるとご飯に辛いペースト、小魚、ゆで卵が入っている。後で聞いたらナシ・レマという国民食らしい。おにぎりのような位置付けか。8時半、車でプロジェクトのメンバーであるセシリアが運営に関わっている高齢者施設へ。島から半島へ渡る橋の上からの景色は、瀬戸内海を思い出す。

オンラインでしか会ったことのなかったセシリアと対面。手作りのお菓子で歓待を受ける。話を聞けば聞くほど、保険や介護制度の整っていない中で、今まさに自ら仕組みを作っているエネルギーに圧倒される。建物の1階では高齢者がエクササイズやレクリエーションをして、2階はスタッフのトレーニングに使用しているそう。10時からワークショップを開始し、ケアパートナーや認知症の当事者の方も含め15人くらいの参加。とつとつダンスのこれまでの映像を見てから、砂連尾さんのリードで体を動かしていく。

・軽いストレッチ

・ペアで手をマッサージ

・ペアで、手のひらを合わせてリーダーとフォロワーの役割を決めて一緒に動く

・手のひらを浮かせて同じことを行う

・コピーはせず違う動きで、リーダーの動きにフォロワーがついていく。ペアを変えながら何度か行う

最後のエクササイズについて、「これは何のためにやるのか」という質問があり、そこからしばらく議論が続いた。砂連尾さんからは「意味のない世界を遊ぶため」という答えが返される。共有されたルールがあると、安心するし動きやすいが、それなしの状況でどう動くかを探る試み。

用意してもらった昼食を食べながら、マレーシアの介護や保険制度の問題について話を聞く。認知症は恥ずかしい、隠すべきものという認識があるのが問題だとセシリアは言うが、それは確かに今の日本にも少なからずある。

高齢者施設の母体で、隣接して建っているバガン病院も見学。病院全体はアートセンターのようなおしゃれでオープンな建物になっている。マレーシアは国民皆保険ではなく、個別に保険に入らないといけないとのこと。国立の病院は安いが、非常に待たされるので、お金がある人は各自保険に入り、私立病院に行く。シンガポール資本が入ってきていて、医療がビジネスになっている。日本も徐々にそうなるのだろうか。

12/27

聞いたことがない鳥の声で目が覚める。どんなメロディーだったかもう思い出せない。マレーシアでは鳥がやたらと存在感がある。

プロジェクトに参加している音楽家のカマルが教えている大学で、イベントを行う。学生60名ほどが参加してくれていた。学生のウェルカムバンドの演奏を聞き、砂連尾さんのトークと映像上映、そしてワークショップを30分ほど行う。その後、30分くらいインプロのセッション。ほぼ何も決めていないまま始まる。このようなインプロセッションは一体何年ぶりだろうか。カマルと砂連尾さん、私が互いに探り合い反応し合いながら、その場でやるべき”仕事”のようなものを見出していく。学生を徐々に巻き込み、さまざまな切り口でコンタクトするような時間。マレーシアの人は、最初はシャイだが後から自発的に話しかけてきたりする人が多く、ノリもいい。盛況のうちに終わり、ゆっくり時間をかけてお昼を食べ、車で3時間ほどかけてイポーへ移動。ジャングルは高速道路から見るだけでも奥深く広大で、何が潜伏していてもおかしくない。イポーのホテルにチェックインする。11階の部屋の窓から見える、遠くの山の形が面白い。土を適当に丸めて置いたようなぼこぼこした形をしている。オールドタウンを歩き、チャイニーズのお店へ。凍りかけのビールはこの蒸し暑い気候に合う。

12/28

8時半ごろ、街に出て朝食を食べられるところを探す。インド系の食堂に入り、甘いミルクティーと、ココナツ餅のようなスイーツを食べる。インド系でないアジア人で女性なのは私1人だったので、じろじろ見られてあまり落ち着かず。女性が1人でうろうろするのは普通のことだとつい思ってしまうが、そうではない場合も多々ある。

29日にパフォーマンスする会場のPORTに向かい、場所を見学する。広い敷地に2つの建物があり、野外ステージもある。設立の経緯の話に驚く。地元のアーティストがこの場所を活用するアイデアを州政府に持ちかけ、途中誰かに乗っ取られそうになりながら取り返し、現在は州政府の支援を受けながら運営しているとのこと。人々の行動と政治の動きが直にリンクしているのを、羨ましく思う。カマルも合流し、ワークショップとパフォーマンスの進め方や、場所の使い方を皆で相談する。

ホテルに一旦戻り、オールドタウンを散策し、土産物屋で虫除けバームを買う。イポーは特に中華系が多いらしく、店の人にはほぼ必ず中国人だと思われ、中国語で話しかけられる。街中ではマスクをしている人の方が多いが、していないからといって非難の視線を向けられることがない。もちろん感染がもっと深刻になったらその雰囲気は変わるのだろうけど、基本的に人は人、自分は自分という原則が働いていることに、すがすがしさを感じる。

カマルの家を皆で訪問し、夕食をご馳走になる。

12/29

朝目が覚めるとだるく、午前中は自由時間だったが寝て過ごす。待ち合わせ時間にロビーに降り、具合が悪いことを伝えると、午後まで休んでいた方がいいということに。部屋に戻り引き続き寝る。具合は良くならず、結局ワークショップにもパフォーマンスにも参加できず。夕方、Yさんが様子を見に来てくれ、薬などもらえてありがたい。熱を測ると39度近い。関節痛と頭痛、だるさがあり、喉にも違和感。コロナかどうかが気になる。

12/30

朝、検査キットで抗原検査をするとくっきり2本の線が出て「陽性」。私はYさんとともにイポーに残ることに。皆がクアラルンプールに向けて出発するのを見送り、泊まっているホテルが満室だったので、私とYさんは別のホテルへ移動。熱は上がり下がりを繰り返し、喉の痛みがますますひどくなる。

食べ物を色々買ってきてもらってありがたいが、あまり食べられず、飲み物ばかり飲む。夜は痛みで唾や水を飲むのも辛い。痰が喉にからみ、何度も目が覚めては洗面所に向かう。もしケアしてくれる人が誰もいなく、症状がもっとひどかったら、と想像する。

12/31

38度台前半に熱が落ち着いてくる。午後、獅子舞がいるとYさんからLINEがあり、ロビーまで降りていく。久々の外界の空気を吸う。ホテル前の川沿いを少しだけ散歩できた。数日間自分の身体のことにかかりきりだったので、異国の景色の中にいることが不思議に感じられる。夕方から2階の宴会場でやっているカウントダウンパーティーの重低音が、16階の部屋まで響いてくる。結局爆音は24時まで続いた。このホテルは見かけは豪華だが、ちょっとひどい。設備も至る所が壊れていて、洗面所にはアリがいる。Yさんの買ってきてくれたフォーやお粥を食べる。喉の痛みがひどすぎ、喉スプレー薬も炭酸ドリンクも、凶器にしか感じられない。

2023/1/1

37度台に熱が下がる。買ってきてもらったフォーとお粥を食べる。Yさんはクアラルンプール(KL)から移動してくる皆と合流するために、13時くらいに駅へ向かう。私は15時くらいまでカフェで時間を潰す。すっきりした気分を味わいたくて、ついレモンティーを頼んでしまい、喉に果汁が突き刺さってあまり飲めず。タクシーで元々泊まっていたホテルに移動。チェックインして、見覚えのある部屋に戻ってくると、今がいつなのか混乱してくる。元気になってきたので、ランドリーの場所をチェックしがてら、ニュータウンの方に散歩へ。ランドリーは見当たらず、そのまま川の向こうをぐるっと歩いて戻る。川沿いの土手で牛の放牧をしばらくぼんやり眺める。牛たちは日を浴びながらモリモリと草を食べたり川を泳ぎ渡ったり、夢の中のような光景だった。

1/2

夜の間は、何度も痰が絡んだり喉に違和感を覚えたりして目が覚めた。ある意味一日中、覚醒と睡眠の間を彷徨っている。8時起床、Yさんに教えてもらった中華のお店に行く。お粥を食べたかったが、中国語で話しかけられる勢いに圧倒され、勧められた海老出汁のヌードルを頼んで、部屋に戻って食べる。

10時からペナンでの砂連尾さんたちによるセッションをオンライン視聴。

・映像を見せながらとつとつダンスのこれまでを紹介

・握手するまで5分かける。手に実際に触れるまでの時間を2人でどう過ごすか、というワーク

・オンラインWSにも参加していたマレーシア人のIさんと砂連尾さんが29日に踊った映像を紹介

参加者からは、症状がどのように実際に改善するのか、行ったワークは認知症患者にどのような効果をもたらすのか、など、治療に役立つ側面を問う質問が相次ぐ。ケア当事者としては、そのような期待を当然抱くのかもしれないが、全体的にマレーシアの人々は認知症を受け入れるというより、その進行を止めたり巻き戻したりする方法を求めているのだろうと思う。最後に、秋からオンラインWSにも参加してくれていた、認知症ケア当事者のAさんがコメントしていて、認知症の実情やとつとつダンスの意義を端的にまとめてくれていた。

14時前、ランドリーに出かける。地図で大体の場所を確認していたが見つからず、人に聞いたりしながら辿り着く。機械の使い方がいまいちわからず、地元の人らしき女性に助けてもらう。洗剤までもらってしまった。彼女は他の旅行者らしきカップルにも洗剤をあげていた。別に仕事でも何でもないのに、おそらくいつもそうやって、ランドリーに来る慣れない旅行者たちを助けてあげているのだろう。機械や設備はどこでも大体半分くらいは壊れているが、彼女のような人の柔軟な振舞いが挟まれることで、この国は回っているように思える。洗いと乾燥で50分、10RMほどかかる。

1/3

7時ごろ警報音が鳴り響いて起きる。何が起きたのか分からないままドアを開けると、そこまで緊迫した空気ではないものの他の人たちが避難しようとしていたので、着替えて最低限の貴重品を持ち、階段で9階から下まで降りる。コロナからようやく回復したら、今度は煙に巻かれて死ぬのかという考えが頭をよぎる。ロビーに降りてもしばらく警報音は鳴り続けていた。誰かが地下でタバコを吸って、それに反応したらしい。エレベーターが復帰し、部屋に戻る。抗原検査をすると、陰性の結果が。これで安心して長距離列車に乗れる。

14時半ごろ、タクシーで駅に移動。マレーシアでは自転車を全くと言っていいほど見ない。もっと自転車を活用すれば大気汚染も渋滞も減り、歩行者に優しい街づくりもできるだろうに。

15時半、KLに向かう電車に乗り込む。覚悟はしていたが、車内は極寒。1時間ほど耐えたが頭が痛くなってきたので、靴下も長いものに結局履き替える。砂連尾さんのアドバイスに救われた。私1人が布やジャケットに厳重にくるまり、周りの人は半袖やサンダルで平気な顔をしている。一体どうなっているのか。

大都会に到着し、Kさんの車で宿まで乗せてもらう。すさまじい渋滞が続き、割と近くなのに1時間くらいかかる。これでもまだ昔よりは改善されたのだそうだ。体調不良で帰国を1日遅らせていたツアーメンバーのUさんと落ち合い、チャイナタウンを少し案内してもらう。チャイナタウンの雰囲気は例えるならアメ横だと聞かされたが、確かにそうだった。2人とも食欲があまりないので屋台でワンタンのみ食べる。

1/4

8時前に子供の歓声で目が覚める。近くに小学校がある。目の前の超高層ビルの工事の音もする。世界第二位の高さになるらしい。

朝食ついでに少しの散歩のつもりで出かけ、セントラルマーケットと、その少し先の繊維博物館へ。織物と染め物の歴史と技術が詳しく解説してあり興味深い。私の理解が正しければ、中国から来たシルクの織物に、インドの染色の技術を応用してバティックが始まった、という説明だった気がする。

15時半ごろ部屋に戻る。1時間くらいの外出と考えていたのに、6時間くらい出歩いてしまった。体調は万全ではないが、街が面白くどんどん先へ進んでしまう。19時半ごろ仮眠からようやく起き上がり、夕食を求めて外へ。小雨。

雨が降ったからか、人や屋台は少なめ。噂に聞いていたハラル食品であるラムリーバーガーの屋台を発見し、張り切って注文。甘辛い濃厚なソースと卵・パティの組み合わせ。確かにこれは癖になりそう。

昨日はシャワーは水しか出なかったが、入る前に作動を確かめると、今度はうまくお湯が出た。つまみを回す速度や順序など、何か機械のクセがあるのだろう。

1/5

両親とLINEで少し通話し、近況を報告。午前中は、療養中で抜けていた分も含めて日誌を書き、疲れを取る。昨日たくさん歩いたのでまだ疲労が残っている。12時過ぎ、ランドリーへ。コインが出てこなくなるのを恐れていたが問題なかった。洗濯物を乾燥機に移し、40分の間散歩する。一本道を入るとムスリムのエリアになり、道にいるのは男性ばかりになる。少し怖く感じてしまい、すぐにチャイナタウンに戻る。自分の容貌が異質だから勝手に不安を感じるのか、実際に何か視線を感じるのか、何かされたわけでもないのに、なぜ不安に感じるのだろう。

部屋に戻り、しばらく仮眠する。きれいに開発されたエリアにも足を踏み入れたく、17時半ごろブキッ・ビンタンへ。初めてMRT(地下鉄)に乗る。ほぼ無人でぴかぴかな地下構内を何層も降りる。ブキッ・ビンタンに着くと、人で溢れかえっている。伊勢丹の地下で日本の雰囲気に浸りながら、マレーシアのお茶をお土産用に買う。あちこちに春節の大掛かりなデコレーションがある。日本の正月のようなしみじみとした楽しみ方ではなく、明るく華やかに楽しむのだろう。

1/6

9時近くにようやく起きる。疲れている。11時すぎ、BMKKというビルに入っているファイブアーツセンターに到着。マークさんにファイブアーツ含め場所を色々案内してもらい、ビル全体を回る。民間の会社がアーティストに安くスペースを貸し出しているビルだとのこと。カフェでコーヒーを飲みながらファイブアーツの歴史や活動の様子などを聞く。検閲のクリエイティブなかいくぐり方や、観客も含めどのような関係性の中で運営しているのかなど、どの話も興味深い。ファイブアーツでは、1年の中である1ヶ月間は「オープンスタジオ」と称し、無料で誰にでも使ってもらうことを続けているそう。イスラムやヒンドゥの寺院では特別な期間に食べ物を用意して誰でも来た人に振る舞うという習慣があり、それにならっているとのこと。ユングラでも同じようなことができたらと思う。

ILHAMギャラリーへ。アンパンパークという駅に行くはずが、アンパンという別の駅に向かってしまう。降りたらだいぶのどかな風景が広がっていたので、違うと気付き、アンパンパークにまた移動。展示は夢や妖怪など、実在しないイメージがどう作品の中で扱われているかをテーマにしたもの。

チョウキット市場の方へ寄り道する。観光客はほぼゼロで、リアルな貧しさがむき出しのままある雰囲気。気軽にカメラを取り出せない。スーパーがあったので入りたかったが、バッグを入り口で預けなければいけないとのことで、諦めた。モノレールに乗り、隣駅に行くうちにまたたく間に景色が綺麗に新しく変化していくのを眺める。高架線から眺めると、高層ビルエリアの合間にところどころ、スラム的なエリアや緑地帯が取り残されている。余裕のある人々は、上へ上へと上っていく。

宿の最寄りから少し手前の駅で降り、夕食を食べることに。ショッピングモールの地下で、バナナリーフカレーのチェーン店に入る。食べる前に手を洗っていたら、手で食べると判断されたのか、カトラリーを渡されなかったので、手で食べることにした。自分でも明らかに洗練されていない食べ方なのがわかるが、しょうがない。バナナリーフは適度にしなるので、手の動きと馴染んで食べ物を掬いやすくしてくれる、合理的な皿だった。

歩いて宿まで向かう途中、スコールが始まりカフェに避難。買った本を読みながらコーヒーを飲んで、雨上がりを待つ。結局1時間半ほど待ち、21時半ごろ戻ってきた。

1/7

10時半ごろ国立モスクへ出発。Googleの言う通りにくねくねと色々な通路を通ってモスクへ辿り着く。目的地まで直線距離では近くても、歩道がつながっていないので、大体思っていたより倍くらいの時間がかかる。KLの街は明らかに歩行者目線では作られていないが、かといって車にとっても周り道だらけで、一体何のロジックで成り立っているのだろう。

ともあれモスクに到着。女性用の全身を頭から覆う上着を装着し、裸足になってモスクに入る。外部と内部は明確な壁で仕切られているわけではなく、柱や透彫の壁などでゆるやかにつながっている。石の床がひんやりと気持ちが良い。身体は隠しているのに、足は剥き出しなのが妙な感じ。イスラム教では、足は性的なニュアンスを持たないものなのだろうか。中心の礼拝室は、信者以外は入れないので、入り口から覗く。円形で巨大。やはり祈りを捧げる対象がモノとしてどこにも設置されていないのが不思議な感じがする。

モスクを出て、隣にあるイスラム美術館にも入る。モスクの様々な建築の形についての展示が興味深かった。北アフリカの最古の泥レンガの四角いモスクは、毎年新たに補強されるのだという。ほとんどそれは保存されていると言うより、新陳代謝し続けていると言った方がいい。中国にある木造の”中国的な”モスク建築や、それに影響を受けたマレーシアの初期の木造で四角くとがった屋根のモスクも面白かった。初期の方が環境により適応した形をしていて、時代を経るごとにむしろ中東の建築をそのまま形として取り入れるようになったのだろうか。普通に考えたら逆の発展の仕方をしそうな気がするが。

美術館から歩いて今度はアトリエやショップが集まっている中山ビルへ向かう。地図上では近いのに、歩くルートがなさすぎて、結局遠回りをして線路の反対側にようやく渡る。道路を渡るのはいつも命懸け。到着すると、そのビルの中だけおしゃれな若者たちで溢れかえっている。中華系だけでなく、マレー系も多い。図書館的な部屋、おしゃれなショップ、ギャラリーなどを覗く。夕食は、老鼠粉(ローシーファン)という麺料理を食べてみる。見た目は何かの幼虫のようであまり食欲がわかない感じだが、味はすき焼きのような感じで食べやすい。

宿に戻ってシャワーを浴び、荷物を少しまとめ、就寝。部屋に蚊がずっといるので、虫除けを手足に塗りたくって寝る。

1/8

10時過ぎにチェクアウト。受付に誰もいなかったので、書き置きとともに鍵を置いてきた。MRTでセントラル駅へ。券売機で、1リンギ札が返ってこなかった。今までどの機械でもお金は問題なく読み込まれていたのに、最後の最後で吸い取られた。11時半過ぎ、セントラルを出発し、12時すぎに空港着。荷物のドロップは早かったが、出国審査が妙に時間がかかった。インド系の女性が審査官だったが、あくびしたりスナックを食べたり、音楽をうっすらかけていたり、だいぶ自由に仕事していた。機上では映画『プラン75』を見る。自分の未来を突きつけられているよう。

21時45分ごろ羽田に着陸。入国まではスムーズだったが、荷物が出てくるのに30分以上待ち、空港を出たのは22時半すぎ。電車を乗り継ぎ、家路を辿る。混んだ電車に早速いらいらしてしまう。マレーシアでも同じように混んでいる場所もあったのに、日本だと周囲の人の振舞いに、必要以上に悪意を感じ取ってしまう。常に旅行中のような気分で移動すればいいのだろうか。