『Trio A』と「本番」という問題について

 

『Trio A』と「本番」という問題について
 神村恵

2017年10月、私を含む6名のダンサーは、イヴォンヌ・レイナー氏の代理であるマノー・フォーン氏による、5日間のリハーサルを経て、2回の「Trio A」ショーイングを行った。まずはその経験を振り返ることからはじめて、「Trio A」という作品に対する評価を述べ、さらにこの作品から得られた示唆についても論じていきたい。

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「Trio A」のショーイング参加にあたって、私が予想していたのは、振付を習得するだけでなく、この作品が作られた背景や思想、ダンス史の中での位置づけなど、作品自体とその周辺の情報とを結びつけるかたちで理解する作業も、並行して行うのではないかということだった。実際のリハーサルは、そうした作品の文脈についての詳細な講義などはなく、具体的な振付を細かく習い、行った動きを修正されるというプロセスをひたすら繰り返すという内容であった。予想外ではあったが、4分半という短い中に詰め込まれた膨大なディテールをもった振付を、いわば自分の身体を明け渡すような仕方で習得することで、内側からこの作品を理解していく機会となった。

リハーサルではまず、レイナー自身が踊る映像から受け取っていた「Trio A」に対するイメージに反して、異常なまでの動きの細かさに驚かされた。当初の印象よりもずっと大きい比重でバレエがテクニックのベースになっており、そこにグラハムやカニンガム、ジャズダンスなど、異なるダンスのテクニックを前提にした動き、日常動作など、質の異なる動きが差し挟まれる。一つ一つの動きには超絶技巧が必要とされるわけではないのだが、いずれかのダンスのモードに入り込んでしまうと、次の動きへの切り替えができずに、すぐに足を取られてしまう。たとえるなら、アクセルを踏みながらブレーキを掛けて、ギアを切り替え続けながら、ゆるい坂道を淡々とのぼるような、独特のきつさがある。

その独特の技術的な困難がありつつも、作品を踊る立場からすると、「Trio A」はある意味では“普通の”ダンス作品だった。外見上はどんなにとりとめのない構成であったとしても、実際に動いてみるとそのなかには細かいレベルでの繰り返しや、盛り上がりを見つけることができる。選択肢を一旦広げたところからそれらを消して厳密にある動きに向かう、あるいは予期していた動きを身体で裏切るというような、ダンス的な快楽も存在する。[※注1]そして、動きのモードをスムーズに切り替え続けるという、可視化されにくいヴィルチュオーゾが要求される。採用されている動きは、何かを表現するための手段としてではなく、動きをただその動きとして行うという意味では即物的ではあるが、明確な目的をもった必然性のある作業ではないという意味で、ダンスであった。また、ダンサーの即興に任せられている部分は存在せず、複数人で同時に踊る際に衝突を回避する必要があることを除けば、予想外の失敗やハプニングが期待されているわけではない。ダンサーは振付家の意図・指示の通りに動きを習得し、観客の前でそれを演じて見せる。観客は、ダンサーによって演じられた作品を見て、振付家の意図を受け取ったり誤解したりする。その構造は、クラシックやモダンのダンス作品と大きくは変わらない。客席から目を背け観客を無視しようとも、舞台に立っている以上、ダンサーは当然見られていることを意識するし、動き自体はつねに正面の客席に向けられている。

ポストモダンダンスの代表的な作例として知られている「Trio A」だが、前述のように、あるテクニックを提示してはすぐさま別のテクニックを持ち出してそれを否定する、という動きの構築の仕方において、既存のダンスに対する批判性はあるが、枠組みとしてはむしろ古典的なダンス作品と同質なものであると言える。逆に言うと、いまやこの作品がポストモダンダンスにおける古典とも言える地位を占め、繰り返し再演されているのは、レイナーの他の作品のラディカルさや徹底した退屈さに比べてある種穏便と見なされ、ステップの連なりという意味での振付においても、ウェルメイドな完成度を備えているからではないだろうか。

※注1:このような、自分の身体を突き放し道具的に扱う動きをダンス的な快楽だと捉える感覚自体が、ポストモダンダンス的な価値観を踏まえたものなのかもしれないが。

 

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ところで、「Trio A」を踊るという経験を通して、私が示唆を受け、最も考えたのは「練習と本番」という問題についてだった。ここからは、その問題について掘り下げてみたい。

個々の動きを内的に動機づける根拠はないとされるにもかかわらず、この「Trio A」の振付には膨大なディテール、そしてそれを厳密に実現させようとする強制力が存在する。それらがどこから来るのか、あるいはどこに向けられたものなのか。リハーサルでは、具体的な振付習得と反復練習、その修正作業の徹底だけがあり、そこには答えがないとされているものの、本番においては、ダンサーは踊りながらも自問せざるを得ない。もちろん、タスクベースの作品においては、パフォーマーはその都度のタスクに盲目的に従うことが前提とされ、その内面などそもそも問題から外されている。しかし実際には、没入のさなかでもパフォーマーはやはり、取り組んでいるこの状況自体が何なのか、メタレベルの視点から把握しようとする。そのレベルの認識の働きを、行為への没入を促す外的なタスクだけでは、十分に規定することができない。つまり私は、ダンサーが自身の取り組んでいることの全体を把握する仕方が、その作品の質に決定的に関与する、と考えているのだ。そしてその把握の有無が如実に出るのが、「本番」という契機である。

「本番」とは、少なくとも英語には相当する言葉がない、興味深い単語である。練習・リハーサルという場では、振付を本番で踊れるようにするという目的がある。リハーサルの中で、どんなに本番と同じような条件で同じように踊ったとしても、状況自体が持つ目的によって、それは「作業」になる。対して「本番」は、何かのための手段ではない、一回的で自己目的的な行為である。重要なのは、練習はあくまで本番を想定して、それを先取りする形で行われるが、「本番」においてはこれ以上、想定したり準備したりするものがないということだ。「これはこれでしかない」というデッドエンドが設けられていることが、本番に特別な輝き、価値を与える。

それゆえ、「Trio A」上演の際、私が感じたのは、以下のような疑問だった。すなわち、それまであった「本番のために」という作業の目的が外れるのだから、内的な根拠のない動きを、本番の舞台で練習時と同じ目的意識を持ちながら行うことは原理的に不可能なのではないか。他方で逆説的なことに、練習の段階では、この「本番」という仮の目的があったからこそ、ダンサー(少なくとも私自身)は、自分たちが取り組んでいる「作業」を「自足的なダンス」だと取り違える瞬間すらあったのだが。

通常パフォーミング・アーツにおいて「本番」とは、何回でもやり直しのきく練習に対して、観客を目の前にした、やり直しの効かないパフォーマンスのことを指すだろう。そして練習においてはダンサーに対して外圧として働いていた振付が、「本番」では内発的にダンサーによって生み直されることが求められ、動きの不確かさは自然さへ代わり、あらかじめ決定されている振付をなぞるのではなく、あたかも今その場で、一回限りの動きを表出させているように踊ることが期待される。そのような、「自然」と装われた内発性/自発性こそを、ポストモダンダンスは批判の標的としてきた。そこでは、パフォーマーと観客との間に生まれる「一回的なパフォーマンス」というイリュージョン、すなわち「本番」が持つ力は、概して否定的に語られる。それゆえ、練習的な状況を本番という場に持ち込むことが様々に試みられてきた。つまり単一のエンド(目的)、クライマックスに還元できないプロセスの確保、一言でいえば「すべてを練習化する」という方向性だ。だからポストモダンダンスにおいて、またはその影響下にある類のダンスにおいて(私もそれに関わる一人と言える)、本番または本番的な状態は、極力遠ざけ遅延させておくべきものと見なされることが多い。[※注2]

結局のところ、私の「本番」というものに対する評価は、アンビバレンツである。理屈の上では、どんな練習も一回しか訪れないという意味で「すべては本番である」とも考えられるし、「すべてを練習化する」とは逆の「すべてを本番化する」という方向性での展開もあり得るのだが、実践的には、ほとんど成果を得られないように思える。なぜなら、「これが本番である」というのは、あくまで外的なタグづけであり、それ自体としては一切の実質的なディテールを欠いているからだ。本番の本番性を部分的に切り出したり特徴を抽出したりして、操作対象にすることはできない。だから本番に対する対処方法にこそ、ポストモダンダンスが一度は拒否したはずの「内面」というものが再浮上してしまう。振付家/演出家が、いくら練習と本番は質的に違いはないとみなしても、「これは本番である」という認識に対応するために、パフォーマーは新たなタスクを内的に付け足しているということがあり得る。パフォーマンスがパフォーマンスとして成立するためには、もしかしたらそのパフォーマーによる内的なタスクの付加に、依存しているかもしれない。あるいは、一回きりの本番という認識の中で、他の誰でもない自分がそれを行っている必然性を作り出そうと、パフォーマーはそこに、自分の実存的な意味を込める作業を行っているかもしれない。それらの問題は平たく言えば「心がけ」のようなレベル(スポーツで言うならメンタルの調整)でパフォーマー自身が処理するより他ないものなのだろうか。

こうした意識レベルの操作ということに関して、卑近ではあるが、いくつかの例を挙げておこう。たとえば、いびきとは、睡眠中すなわち意識の働いていない状態で不可抗力的に行ってしまうことだ。意識が働いていない状態で起こっていることを、意識を用いて矯正することは、一見不可能なように思える。しかし「いびきをかかないようにする」という直接的な行為はあり得ないが、顎周辺の力を喉の方向に向かって抜くという意識を睡眠に入る前に持つことで、間接的な仕方でいびきを消すことができる。あるいは、一般化できるか不明だが、私の場合、飛んでくる花粉に対して心理的に身構えず、花粉を受け入れるイメージを持つことで、花粉症を実際に軽減させることができた。これらははたして、「心がけ」のように純粋に意識的で内面的なことなのか。それともタスクのようにフィジカルな実行なのか。はたまた「おまじない」のような呪術的なものなのか。私自身としては、こうした微細な内観的な操作もタスクの一部として捉え、その可能性を探る余地が残されているのではないかと考える。

練習と本番の関係に、今一度立ち戻ろう。練習が十分に積み重ねられた先に、本番が訪れるのではない。外部から設定されたリミットによって、練習が強制終了させられるモメントが「本番」なのである。(「Trio A」に今回参加したダンサーたちが5日間の練習だけでショーイングを行ったように、締め切りによってこの原稿がようやく終わりを迎え、公開に向かうように)本番しか練習を終了させることはできない。練習とはそれ自体は無際限で終わりなきものなのだ。練習をやめる契機として、あるいは「できる/できない」という練習成果以上のものとして、無根拠で恣意的なこの「本番」というカテゴリーを積極的に活用する術こそ、求められているのではないだろうか。

※注2:別の対処方法として、パフォーマンスをその後の批評や文脈づけのための準備と見なし、作品にとっての「本番」を、それがのちに解釈されたり文脈づけられたりする地点に置く、ということもできるだろう。しかしいずれにせよ、どこかの地点を本番、やり直しのきかない地点として設定することについては変わりがない。
 
 
http://www.nanakonakajima.com/rainer/?p=80より転載