2019/2/6

2 ピダハンの「見る」

ここでいったん寄り道して、アマゾン原住民ピダハンの言語と文化を調査研究した書籍『ピダハン-言語本能を超える文化と世界観』(ダニエル・L・エヴェレット)の一部を紹介し、「見る」ということについて考えてみたい。

・現実/夢
ブラジル、アマゾンのジャングルで狩猟生活を営む原住民ピダハンは、文字や宗教の存在しない、極めて特異な言語・思考を持っている。彼らは自分が直接見聞きしたことしか信じないし話題にもしない。したがって彼らの社会には、神話や歴史、将来の計画も存在しない。
しかし一方で、彼らが「見る」ことのできる内容は多様である。例えば、彼らは寝ている間に見る”夢”も、自分が「見た」ことととして、現実と全く同じように語る。ピダハンの「見る」経験にはいくつかの種類が含まれているようだ。いわゆる現実に見えている出来事、現実の中で想起されるイメージや錯覚、睡眠中の夢、誰かが演じる内容。それらすべてを彼らは区別なく「見る」。

それゆえ、彼らは精霊を見たり交霊したりすることができる。たとえば、アメリカ人言語学者である著者から見れば単なる草むらでしかない所に、「精霊がいる」とピダハン達が指さしていることがあった。彼らにとっては、精霊がいそうな「感じがする」のではなく、「見えている」のだ。
また、彼はある日、亡くなった女性の霊に扮した村人の男性が現れ、死ぬということや地面の下に精霊がいることなどについて語るのを、他の村人たちと共に見た。西洋的な目線で見れば、それは明らかに「演じている」としか言いようがないのだが、彼らは演じ手に憑依している精霊を見てとっているので、体験としてはあくまで「精霊を見た」ということになる。
このように、ピダハンの文化では、超常現象(それが意図的に作られたものでもそうでなくても)も直接体験の一部として捉えられている。つまり、ピダハンにとっては、精霊というものは、自然を超えた(super naturalな)ものではなく、あくまで自然の中の一つ、日常の一部として存在している。〔1〕

ピダハンに対して私たちが負っているハンディキャップは、いわゆる近代化された生活の中では、超自然的なもの、夢や錯覚は意識の中で視覚化しているだけで、実際に目で見ているわけではないこと、見ている対象が自分の頭の外にも存在しているわけではないと、私たちが「知っている」ことだ。
例えば、夢を見ている最中は、これが夢だと認識することはあまりない。夢の中にいる間は、自分が本当にそれを見て体験していると思っている。しかし目が覚めて、見ていた夢を「あれは夢だった」として思い出すことがある。つまり、現実だと思っていたあれはそうではなかったこと、そして今目の前に見ているものが現実であるということを認識する。
これに対して、逆の場合を考えてみる。夢を見ている最中、目が覚めていた時の現実について「あれは(もう一つの)現実だった」と思い出すことは、可能だろうか。それはかなり難しいように思える。そのとき見ている目の前の夢をさらに良く見ようとしなければ、現実を思い出した途端に、単にぼんやりした現実の中で現実を思い出している状態に陥ってしまうだろう。
この夢と現実の非対称性は、「見る」ことについての怠惰によるものだろうか。これを崩すための訓練の一つとして、今回のダンスを見るというような経験があるのかもしれない。〔2〕

〔1〕ただし、日常の延長とは言いながらも、ピダハンたちは時に見るモードを切り替えているようにも思える。つまり、霊を演じているのは部族内の男性だと明らかに認識できるはずであるのに、その認識を停止させ、彼が演じ指し示しているもののみを見ているからである。

〔2〕ピダハンはむしろ、常に夢を見ている状態、すべてを夢と見なしている状態に近いと言えるのかもしれない。しかし、すべてが夢であるときに、夢は夢と同定できるのだろうか。現実と比較し得ないとするなら、その夢は私たちの知っている夢ではないとも言える。

・空間
興味深いことに、ピダハンは、時間的な視点については現在に固定されている一方で、空間的な把握については俯瞰的とも思える視点を持っている。
ピダハンは、「右」と「左」に当たる言葉を持たない。ではどのように表現するのか。彼らは川の傍に住み狩猟採集・農耕を営んでいるので、その川を基準に自分の位置や方向を把握している。よって、右と左のような区別をつける必要があるときは、「上流側」と「下流側」という表現を使う。もし自分の右手が川の上流側にあったら「上流側の手」、左手は「下流側の手」となる。川に対して反対の向きに立っていたら、もちろん逆の言い方になる。彼等は自分たちのエリアの地形を熟知し、ジャングルのどこにいても自分が川に対してどういう位置関係にあるのかを、その都度正確に把握しているため、このような表現を用いることができるのだ。

逆に言うと、ピダハンは、自分の身体(特に背骨)を中心軸としてそこから半分ずつに切り分ける、という仕方で世界を把握してはいないということになるだろう。川を中心とした自分たちの活動範囲全体を、その中にいる自分自身込みで、常に俯瞰的に捉えているということなのか。それとも、常に川に視点を置いていて、川から自分自身や全てのものを見ている、という感覚なのか。極端な言い方をすれば、彼らの背骨は川であり、上流が頭、下流が足、ということだとも言えるかもしれない。

「私は下流側の手を怪我している」と、例えばピダハンが言う時、彼等は実際には見えておらず見たこともないはずの「川を含めた居住地域の、ある地点にいる自分の、持っている手」というダイナミックなフォーカスの変化も伴うような空間的イメージを「見ている」と言えないだろうか。

(続きます)